英語史の輪#4「書き言葉vs話し言葉」その3 研究者はなぜ「話し言葉」にこだわるのか?研究者の生態から考える
前回、なぜ研究者は「話し言葉」を優位とするのか?について、語源とか英語史という専門性を一旦捨て、「研究者の生態」という視点から考えてみることを提案した。
実は、その1において、heldio子の「契約は書面が優位である」との見解に対して、必ずしもそうではないという形で、研究者たち、アカデミズムの生態というものについてチラリと触れた。
今回はさらにそれを掘り下げていきたいのだが、その前に、法律の世界で似たような構造をもつもう一つの事例を紹介したい。刑法の責任能力の問題である。参考までに朝日新聞デジタルのリンクを貼っておいた。
詳細は記事を読んでもらいたいが、要するに「心神喪失」を判断する時期である。そもそも容疑者が心神喪失かどうかの判断も難しいのに犯行時点で心神喪失の状態だったのか?などもはや神のみぞ知るである。当然、現実の裁判では検察側、弁護側からの鑑定結果は一致せず、最後は裁判所がエイやっで決めることになる。そうなると、いくら法理論的にはそうであっても、人間がそれを判断できないとなればその要件に意味はあるのか?仮に意味があるとしても、犯行時点にそこまでこだわる必要はないのでは?となる。
しかし、研究者たちはびくともしない。純粋な法理論がある。これを掲げられると立てつくのは難しい。でも、あまりにもその結果が理不尽なときは、現実にあわせることもある。
「原因において自由な行為」という概念がある。例えば、飲酒で心神喪失の状態で犯行に及んだ容疑者の場合。容疑者が犯行時点で心神喪失であることに間違いない。よって、無罪、あるいは減刑となるところだが、それでは世間が許さない。で、法理論を捻じ曲げて「未必の故意」というのを作った。飲酒のときに故意を有しているので心神喪失は認められない、とやった。このときに限っては…といって。こんな強引な論理が可能であれば、心神喪失の判定を前倒しにすることだってできると思うのだが…。
さらに、細かいもので道路交通法、飲酒運転の判断である。酔い加減は人によって違うはずなのに呼気中のアルコール濃度で一律に決めている。先ほどの理論からどうなのか?こういう現実とのつながりが強い場面では安易に妥協している。
最初に戻って「心神喪失」の判定である。そうした純粋な法理論をかかげる研究者たちが現実の裁判にどう対応しているか?心神喪失を強く疑われながらも多数の殺人ゆえに厳罰に処される事例に接しても、それについて彼らの法理論をかかげて抗議することはないようだ。彼らは研究という現実を離れた世界で議論するのみ。その環境が確保されることが彼らの関心事でありるようだ。
言語学の研究者たちによる「話し言葉」へのこだわり、「書き言葉」を切り捨てる態度に、こうした研究者特有の生態が関係しているのではないか?「書き言葉」を切り離すことで、想像の翼を大きく広げ自説を展開できる、研究の舞台も広がり、多くの研究者を抱え込むことができる。
そうした研究者の生態も研究者たちが「話し言葉」を優位に起きたがる理由のひとつだろう。
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