YouTube井上堀田「読み手責任と書き手責任」~現代文の授業って必要ですか?~

で、そうした日本の「読み手責任」の重視、「書き手責任」の軽視がどのような問題を引き起こしているのか?~今回は、「現代文」、「ラーメン業界」を事例に考えてみよう

私たちの世代では「現代国語」略して「現国」があった。
私たちは読み解く力、読解力が大切だとずっといわれてきた。
しかし、よくよく考えればおかしくないか?
小学校の「国語」で基本的な文法、読みを習っており、
辞書を引きながらでもひととおりの文章は読めるし、
年齢を追って、必要に応じて読みたい文章は読めるようになっている。
事実、小学校しか出てない元総理・田中角栄の愛読書は「菜根譚」という。
もっとも、読むのに根気が必要な難解な本もある。
しかし、そんなの「分かるように書けよ!」という話ではないか?
事実、難しい内容を分かりやすく書いた本もある。
文章だけでは無理なら絵や図を使えばよい。
「書き手」とは何かを伝えたい人。伝えたいことがあるから筆をとる。
であれば責任は「書き手」におくべきだろう。

ラーメン好きにとってはおいしいラーメンが増えたら嬉しいだろう。
では、どうしたらおいしいラーメン屋が増えるだろう?
以前はよくテレビで頑固なラーメン屋さんを見かけたものだ。
ラーメンはこうして食べろ、というものだ。 

まずスープを少しすすり、麺に手を付け、しばらく食べる。
半分くらい食べたところでおもむろにチャーシューを口に運ぶ。
すぐさま麺を口に入れ、さらにスープをすする。…
なーんて感じだ。

こんな感じのラーメン屋ばっかだったらどうだろう?
即ち、食べ手においしさの責任を求める業界だったら。
間違いなく味は落ち、業界は衰退するだろう。
提供するほうが味の責任をもってはじめて努力をする。
努力しない事業者は淘汰される。
これが一般的な業界である。

ところが活字業界は違うようだ。
サービス提供者側の出版社や作家たちは、
活字離れをまるで読み手側の責任のように言う。
物事をかんがえなくなった。受動的になった。テレビばかり観る。YouTubeばかりを観る。結果、活字を読まなくなった、という具合に。
その反対に、「書き手責任」は常に免責される。
というより、悪文のほうが入試に採用され易いのでは?
分かりやすい文章では全員が満点をとってしまう。
だから、異常に難解な本や悪文も淘汰されずに居座りつづける。
そんな活字市場が衰退するのは当然だろう。

「読み手責任」の行き過ぎは、「書き手責任」を免責し、結果として活字市場を衰退させてしまうといえそうだ。



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