まさにゃんはなぜ英文法にハマった?〜英文法にハマる人・ハマらない人 その1〜

(1)まさにゃんと英語の出会い

 英語史の輪#21でまさにゃんと英語の出会いが明らかになった。まさにゃんがはじめて英語と出会ったのは幼稚園(年中?)時代。きっかけはまさにゃんぱパパ、即ちきくぞうさん。「これからの時代は英語ぜよ!」というわけで英会話教室に通いはじめた。元々、言葉に興味があった森田少年、すぐに英語が好きになった。そういうことで小学校入学後も通い続けるも、小5ころになって「面白みを感じなくなってやめた。」のだそうだ。ところが、「中学校に入って英語がまた好きになった。」「何が変わったのか?アプローチかな。それまでは英文法の色合いは薄かった。中1になって英文法を学んで好きになったかも。」と言う。これまでは、「出会ってからずっと英語が好きだった。」と公言していたままさにゃんの突然のカミングアウトだった。
 この嗜好の大変化をどう考えたらよいのか?まず、英会話教室での英語は、いわゆるコミュニケーション英語に間違いない。はじめのうちは、それも楽しかった。しかし、小5あたりで英語に対する興味が薄れて、中学校で英文法を知って再び、焼け木杭に火がついた、ということは…。コミュニケーション英語にない特性が英文法にはあり、それに惹かれたということだ。それは何か?英文法のもつ「規則性」「法則性」しか思い当たらない。
 もちろん、コミュニケーション英語に規則性、法則性がないわけではない。しかし、その第一の目的は伝わることである。しかも、世界英語と言われるように、その姿は一様ではない。英文法よりも実用、実践が大事なのは間違いない。そこに人によって得て不得手が生じる。元々、文字(規則性、法則性に対する興味があったまさにゃん、英語に興味を持ったものの、そこでの英語は「規則性」「法則性」に薄いため、徐々に興味を失っていくも、中学校で英文法に出会い、そこに言語の「規則性」「法則性」に見出し、再び英語に戻った、と考えるのが自然だろう。
 では、なぜまさにゃんが「規則性」「法則性」の方に惹かれると考えるのか?きくぞうさん情報によると、小さい頃から言葉に興味があった。「三匹の子ぶた」や「ドラえもん」の多言語版に興味を示したなどのエピソードに事欠かない。これは言葉の法則性に興味があったからと推測する。さらに、高校時代のまさにゃんは理数系への進路を希望していたとか。以上二点をもとに、まさにゃんが「規則性」「法則性」に惹かれる性質を持ち、英文法に惹かれたと推測する。
 それでは、さらに踏み込んで、なぜまさにゃんは、英文法の「規則性」や「法則性」に惹かれたのか?いや、なぜ人によって「規則性」「法則性」に惹かれたり、惹かれなかったりするのか?世の中では簡単に高校生を理系か文系に簡単に仕分けするが、その嗜好の違いがどこからくるのかには意外と無頓着だ。しかし、これは人の学習の態様を考える上でとても重要な視座ではないか?実はその答えに少しばかり心当たりがあるのだ。

(2)中1で赤穂浪士にハマったときの話

 ちょうど50年前。(半世紀!長く生きてきたな〜)。当時中学1年生だった私は赤穂浪士(歌舞伎では忠臣蔵という題目)にハマっていた。きっかけはNHKの大河ドラマ「元禄太平記」(ちなみに大河ドラマデビューは前年の「勝海舟」)。このドラマは元禄という太平の時代を側用人・柳沢吉保と赤穂藩の大石内蔵助を通して描いているた。小沢栄太郎演じる吉良上野介のパワハラに堪忍袋が切れた片岡孝夫演じる浅野内匠頭が江戸城松の廊下で刃傷に及ぶ。そして、内匠頭は即日切腹、お家は断絶。そして、主君を失った赤穂浪士四十七士が艱難辛苦を乗り越えて仇討ちを遂げる、という展開にハマりにハマった。再放送はもちろん、毎回、テープレコーダーに録音(ビデオがないので)、何度も聞き直した。
 どこにハマったのか?もちろんストーリーの面白さはあるだろう。忠臣蔵は吉良をどう捉えるかでストーリーが大きく変わるが、このドラマは赤穂を善、吉良を悪とする典型的な勧善懲悪のストーリー。上野介のパワハラ行為に憤り、浅野内匠頭に同情を寄せ、浪士たちの動向に気を揉み、最後の討ち入りで狂喜乱舞。中学生がハマりやすい内容ではある。
 しかし、今回改めてそのハマりの模様を振り返ってみると、そうしたストーリーよりも、その周辺部のこと、枝葉末節のことに夢中になっていたことを思い出した。そして、そこに身を投じていたときの心地良さが、どうやら英文法や数学、物理の「法則性」「形式」に身を置いているときの感覚にとても近いことに気づいた。意識下に潜む何かに突き動かされているような?そんな気がしてならないのだ。いったいそれは何なのか?
 それを探り当てるために、今回、赤穂浪士にハマっていたころの自分の感覚を観察してみることにした。読者のみなさんには是非、英文法や数学に夢中になっているときの自分を思い出しながら読んでいただきたい。それでは中1のころにタイムスリップ。
 まず見えてきたのが浪士の名前への関心である。最初に気になったのが、浪士の名前(いみな)によくある左衛門(ざえもん)と右衛門(えもん)。赤穂浪士でいえば内蔵助の片腕である吉田忠左衛門(ちゅうざえもん)、磯貝十郎左衛門(じゅうろうざえもん)の「ざえもん」と片岡源五右衛門(げんごえもん)、原惣右衛門(そうえもん)などの「えもん」。「ざえもん」からいけば「うえもん」がいいのでは?などと中1の子どもが気を揉んでいた。(全く変わってるわ!)。
 浅野内匠頭と大岡越前守、最後の「かみ」がなぜ「守」と「頭」と違うんだ?上野介は「介」だけどなんで?身分の差か知行高の差か?吉良は四千石で浅野の五万石とあるがどっちが偉い?官位は吉良が従四位上で浅野は従五位下だそうな。石高で偉さは決まらないんだな。幕閣で将軍の次に偉いのは大老というが何万石くらい?次が老中、若年寄とくるがでどれほど格が違う?その下の三奉行は大名ではなく旗本とは!いや、そのうち寺社奉行は大名がなるそうな、同じ奉行なのになぜ?
 同じような調子で、興味は赤穂藩に移っていく。大名家の役職はどうなっている?老中に当たるのが家老か?奉行もいる。側用人、小姓、馬廻など…。赤穂藩が五万石で家老の大石内蔵助が1500石。その下が200石、300石とつづく。高田の馬場の仇うちで名を馳せた堀部安兵衛は馬廻役の200石だとか。もっと少禄となると、20石5人扶持とか15両3人扶持と単位も変わる!?扶持ってなに?そんなこんなで脳内に赤穂藩浪士内での序列が出来上がっていく。あっ、赤穂浪士のプラモデル(4人が1セットで数箱シリーズ)が売ってあったので買ってもらって(いつも買うのを渋る親もこればかりは買わないとヤバいと思ったのだろう。)、一体一体組み立てて、色を塗っていくときの充実感ったらなかったな〜。(戦車や戦闘機、戦艦でもなく浪士!?)
 ざっと思い出したのはそんなとこだ。なんか目的があるわけでなし、解決したい問題があるわけでもない。自分の興味の向くままに身を任せている。そんなときは居心地が良いというか安心感があったような気がする。結果的に日本史の知識もつき、得意教科になっていったが、あくまで好きの結果である。この辺りの感覚は学問好きな人には分かるだろう。
 もっとも、今ならこうして客観視することもできるが、ちょっと前までは自分のこうした行動が不可解で仕方なかった。「オレは権威主義者なのだろうか?」「序列を作るなど差別的な人間なのでは?」「格式ばったことを好む保守主義者か?」などと常に自分を否定的にみていた。ある研究に出会うまでは。

(3)自閉症研究との出会い

 今から20年ほど前、長崎県で起こった少年事件をきっかけに、自閉症や発達障害といった脳機能に障害がある子どもについて学ぶ機会をえた。いろんな本を図書館で取り寄せて読み耽った。読みはじめの動機は、障害の内容とか家族の苦しみなどを知りたいというものだった。どんな障害なのか?障害によってどんな生きにくさがあるのか?家族はどのような悩みを抱えているのか?といった健常者側の視点で読んでいたが、彼らの言動を虚心坦懐に見ているうちに「これって自分と同じじゃん!」と共通性を見出すようになる。そして「彼らの行動の意味が分かれば、本当の自分を知ることができるのでは?」と思いはじめる。
 もっとも、研究者の本を読んでいて気になったことがある。それは多くの研究者が障害の奇異な行動を取り上げては、これが障害の特徴だ、ここが健常者と違うところだ、と言い立てているように見えたことだ。例えは悪いが、未知の動物を見物客に見せて驚かせているような。そんなふうに映った。(自閉症の一種・サヴァン症候群の人々が電話帳を一冊丸ごと記憶できることを吹聴しているような。)実際に自閉症の講演会にも参加したが、「これが彼らの典型的な行動だ!」的な言い方に戸惑いを禁じ得なかった。
 そうした従来の研究と一線を画すのが村瀬学著「自閉症ーこれまでの見解に意義あり!」(ちくま新書)である。村瀬氏は、従来の研究者をバッサリと切り捨てる。例えば、多くの研究者が障害者の暮らしを支援する諸々をトレーニングとかスキルとか呼んでいることについて、「こうした呼称が障害児の親を訓練至上主義に追い立ててきた」と批判する。また、「彼らは障害を理解し、研究してあげているという自負が強く、研究者自身、あるいは健常者がその研究から何かを得ている、という気づきがない。」「自閉症の問題を人ごとのように考え、研究しているようだ。」などと批判する。その著者の姿勢に共感、この本から自分にとって必要な何かが得られる予感がした。

(4)人はなぜ「列」に執着するのか?

 ここでは著者が自閉症の特異行動の一つとする「列(場所)への強い執着」を紹介したい。この「列」への強い執着が、私の赤穂浪士へのハマりの意味、さらに英文法、学問にハマるとはどういう状態か?を解き明かすのことにつながる、と考えるので、少々長くはなるが抜粋・引用したい。

 彼らの多くが「列」にこだわっている。「並んでいるもの」が変化することに不安を感じているように思える。いつもの決まった順序を反復することにこだわる。食事のときは家族全員がいつもと同じ場所に座らなければ承知しない。イスの配置が少しでも違っていたら泣き叫ぶ。「配置」もまた「並んでいるもの」である。同じ道順を歩いたり、同じ身体の仕草を繰り返すようなことも実は「列」「並んでいるもの」へのこだわりである。
「列」とはいったい何か?それを問おうという発想がないと、列に関心を示す人たちの行動の意味が見えてこない。見えてこないから病気や症状という発想が出てくる。
 著者が大学に入ってまず戸惑ったのは自分の机がない事実だ。自分の場所が決まってないのは居心地が悪い。この感覚を社会の中での座席、人生の中の座席に見立てられないか。自宅がある場所は住所と呼ばれ、◯市◯番地となっている。だから家は私の座席のようなものである。私の氏名、年齢、職業も「座席」である。「座席」は揺れ動く世界の中で自分という存在の位置を示している。「座席」は私の起点であり出発点。「座席」という動かない起点が確保できてはじめて人は揺れ動く世界に出ることができる。
 実は、ふつうの子どもにも順番や順序にこだわる時期がある。「◯◯はここだ」と決めたら譲らない時期がある。しかし、ふつうの子どもたちは「言葉」や「知識」という新たな「並び」に関心を寄せるようになり、その分、「物の並び」へのこだわりが少なくなっていく。そういう「言葉の並び」を理解することでふつうの子たちは深い座席の感覚を得ているからだ。
 しかし、「おくれ」を見せる子どもたちの中にはこうした「言葉の持つ並び」が理解できずに、親の呼びかけなどにうまく反応ができず、「情緒的に反応」ができずに「自閉的に孤立」しているように見られてしまう。(umisio注:だから「言葉の並び」の代わりに「物の並び」で安心しようとする。それが周囲には異常行動に映る、と解釈する。)
 ある物の隣に、別なある物があり、その隣にまた別のものがある。それは別々のものではあるけれど、「配置」や「配列」としては、規則的な「順番」として並んでいる。この順番になっているものを意識することで、私たちははじめて周囲や環境がある一定の動かない状況としてあることを理解する。もし、周りの配置や配列が、目まぐるしく動き、変わるなら、私たちは「周囲」や「環境」というものを本当には理解できない。それらは動くことなく、そこに整然と並んで存在していることで私たちはそこに私たちのよく知っている「世界」があることを理解することができる。そして、この順番に並んでいる世界を意識することで私たちは深い安心感につつまれる。そして、その配列が違うとパニックになってしまう。
 物事がそういうふうに一定の形で配置され、一定の形で並び、その順番をたどって生きることで、私たちは信じられないほどの安心感、安定感を得ているか…。だから、その配置や順番が違うだけで、いい歳をした大人でも鬼のようになったり、子どものような反応を見せたりしてしまう。…その順番性が毎日の時間の経過の順番をも形作っているということに気がつくところである。歯ブラシやクシの置いてある位置は、見た目は空間の位置に過ぎないが…「時間の序列」になっている。…順番というのは、その人の「次の日」を準備することでもあり、その人の先(明日)を作ることでもある。順番に並んだ数を意識することは、先のことつまり未来を予測することができる。そこに序数という数の持つ偉大な力がある。

村瀬学著「自閉症-これまでの見解に異議あり-」(ちくま新書)

 村瀬氏の考えは自閉症に対する見方のコペルニクス的転換だといえる。これまでは、自閉症の子どもが示す特異な行動は、脳の障害から直接的に生じるものとされてきた。しかし、村瀬氏はそうではなく、自閉症の子は生育の「おくれ」を原因として、通常であれば言葉を通じて得られる「列」の感覚を得ることができず、結果的に安心感を得ることができない。よって彼らは身の回りにある「列」を感じることで安心感を得ようとする。(だから普段と異なるテーブル配置とかになると激しく泣き叫んだ利する。)つまり、彼らの特異な行動は彼らにとって必要な行動である、ということだ。
 ※村瀬氏は人類の三つの「偉大な知恵」として①数(序数)を知ったこと、②暦を知ったこと、③地図を知ったこと、をあげる。②と③を知るとなお理解が深くなると思うが長くなるので、末尾に紹介しておきた。
 こうしたことを聞いて「ああそういうことか。俺はそうじゃなくてよかった。」と他人事で終わっては勿体無い。障害者にボランティア精神で接するのはもちろん大事だが、彼らから「何かを得てやろう」と貪欲に接することも大切だ。具体的にどういうことか?自閉症や発達障害はスペクトラム(境界線が明確ではない)と言われている。つまり、どこまでが障害でどこからが正常か、明確に分けられないのだ。ということは、現在自分が健常者側に区分されていたとしても、彼らと同じような行動、即ち「列」を感じることで安心感を得ていることだってある。であれば、そうした面から自分自身を見つめることができるのでは?

(5)赤穂浪士へのハマりと学問へのハマり

 村瀬氏の本を読んでいくと徐々に、過去の自分の行動に対する批判的な見方、権威主義ではないか、差別主義ではないかといったものが消えていき、そこに合理的な理由があったのではないか、と思えるようになる。
 赤穂浪士の話に戻ると、氏名を構成する「苗字」「いみな」「名前」といった並び、幕閣の大老、老中、若年寄りなど組織図、大名や機物の知行の大小と知行の単位(石、扶持)などには、村瀬氏の言う「列」の感覚があり、この順番に並んでいる世界を意識することで深い安心感を得ているのでは?と考えると妙に腑に落ちる。外からは不可解に見えても、その行動をしている者の内では合理的ということだ。
 そして、このことは学びへのハマりにも通じるのではないか?そのように考えるのは、好きな学びにハマっているとき、赤穂浪士のときと同じような心の落ち着きを感じるからだ。具体例をこのheldio、即ち英語史から引っ張り出してみよう。「なぜdoubtのbは発音しないのか?」。これを聴いて、知って、heldioのリスナーはどんな感覚の喜びを得ただろうか?私について言うならば、新しい知識を得た喜びとはまた異質なものだった。今振り返って想像するに、単語の成立にも理屈がある、規則性があるんだ、という「なるほど」感というか感動というか、いや「居心地の良さ」のようなものを感じた気がする。先ほどからの「順番に並んでいる世界を意識することで得られる安心感」に非常に近いと思う。
 数学でも同じような感覚がある。ぱっと思いつくのは、2の2乗は4、2の1乗は2、そこで2の0乗は1とすることで、2の−1乗が2分の1、2の−2乗が4分の1とスムーズにつながっていくことを知ったときの納得感。三角関数において加法定理が導き出されていくプロセスを追っていくときのワクワク感、それらは単なる知識の習得ではない。いうなら「順番に並んでいる世界を意識することで得られる安心感」ではないか?
 そもそも、学びにハマる、学びが楽しい、というのは、どういう状態なのか?その人にどんな感情をもたらしているのか?現在の世間一般では、人間には元々「学びに対する欲求」というものがあって、その欲求が高ければ学びにハマる、と考えている節がある。しかし、「学びに対する欲求」というものが独立して存在するのだろうか?
 マズローの欲求5段階説によれば、人間の根源的欲求には、生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求があるとされる。「学びに対する欲求」というものはマズローによると存在しない。となると5つの欲求のどれかに入ることになるがどれか一つではなさそうだ。学ぶ目的が大学入学であれば、承認欲求とか自己実現欲求ということいなろうが、純粋に学びにハマる状態の場合は「安心欲求」が大本であると思われる。この仮説が正しければ、私の赤穂浪士へのハマりもまさにゃんの「英文法」へのハマりも、「列」の感覚を得ることによる安心の獲得、ということができよう。
(つづく)

次回の予定

(6)人はどうやって英文法にハマるのか?

(7)heldio周辺のみなさんの道のりを徹底調査

(8)学びたいと思う気持ちの底にあるもの〜学びとは何か?〜





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