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小説「チェリーブロッサム」第4話

 平凡な僕が社会にデビューを果たしたのは、平凡とはかけ離れた、日本屈指の金属加工会社「日本加工」という会社への就職だった。この業界の中では常に最先端の技術に挑戦を続け、規模も技術も業界トップクラス。別の大手加工会社からも、日々難解な加工が持ち込まれるほどだった。そしてこの会社の大きな特徴の一つは、レーシングシーンにおいて、多大な技術力と資本を投下しているということだった。世界レベルのレーシングパーツの加工を積極的に行っていて、カーボン素材をいち早くレース業界に取り入れたのは、この日本加工社であった。世界中で走る多くのレーシングマシンのボディには、輝かしくも我が社の「日本加工」のロゴが、堂々とデザインされていた。
 僕の実力なんかでは、到底、否、何があろうとも入れないような会社だった。しかし叔父のコネでなんとか放り込んでもらったのだ。僕は小さな部門の下積みから、と言う条件で入社し、給料も安かったが、毎日とても仕事にやりがいを感じていた。能力の差を埋める為には、とにかく沢山のことを覚えることが必要だった。そのため、目の回るような忙しい日々を送っていた。しかし会社に入りたての新米の僕には、ただ目の前の仕事を覚えることだけで目がくらんだ。日々覚えることが山のように積み上がっていったが、与えられた仕事のほとんどが、1人で黙々と取り組むことばかりだった。僕はプライベートでもほぼ他人と関わらず、仕事のこと以外何も考えずに必死に働いていた。そして人と関わらない時間は、僕に充実した毎日を与えてくれた。
 それでも社内では当然様々な人々とのコミュニケーションがあり、嫌だからといって断るわけにはいかなかった。僕にはそれが何よりきつかった。寝ないで働けと言われれば何日でも働く体力はあった。しかし会社の歓送迎会や、その他の人が集まること全てに辟易していた。僕は人の輪の中では必ず傷ついて落ち込み、次第に心は悲鳴を上げていった。しかし僕はその心の悲鳴をすべて蓋をして聞こえないようにしていた。とても厳重に。それが僕にできる自分の心を守る唯一の方法だった。
 
                                  
 会社に入り早くも5年が過ぎた。僕は25歳になっていた。沢山の仕事も覚え、それなりのスキルを身につけてはいたし、コミュニケーションが下手なりにも、職場で仲間もぽつりぽつりとはできていた。一時は、カウンセリングを受けなければならないほど、自分の価値観が分からなくなったりした。けれど良いカウンセラーに出会えて、自分の気持ちに取り組む方向性もわかり、四苦八苦しながらも、それでも先を見ることができるようになってきていた。
 しかし女性に関してはまったく違った。会社でも女性に話しかけるなんてできるわけがなかった。話しかけようなんて考えただけで、必殺技「嫌われたらどうしよう」や「冷たい目をされたらどうしよう」などを存分に炸裂させてしまいそうで、怖くて近づくことさえできなかった。当然彼女なんているわけもなかった。
 そんな僕にも、19歳の時に一度だけ彼女がいたことがあった。もちろん相手は想像上の生き物などではなく、きちんと手をつなぎ、きちんとおしゃべりをしてデートもした実在の女性だ。そして彼女は美しかった。そんな美しい彼女と、僕はもちろんあんなことやこんなことだってした。僕は彼女にのめり込むように好きになり、夢中になった。そして僕は夢中になったままの状態で、ある日簡単に振られてしまった。捨てられた、いや見切られたと言った方がいいような別れ方だった。それは当然あまり思いだしたくないような無惨な代物だった。
 しかし僕は当然別れなど受け入れられるわけもなく、その子がいない現実に長い間苦しんだ。その苦しみに耐えられなくなり、心の中のゴミ袋に彼女への想いを無理矢理押し込んで捨てた。といっても、無理矢理押し込んだのは僕ではなかった。何度も何度もゴミ袋から顔を出す彼女の想いを押し込んでくれたのは「時間」であり、そのゴミ袋を運んで行った収集車は「仕事」だった。僕自身はもがくだけもがいても、なんの役にも立たなかった。僕は時間の素晴らしさを知り、仕事の大切さを知った。僕の気持ちはようやく落ち着きを取り戻し、さらに大切な仕事へと没頭していった。
 僕はずいぶん前から会社にいると「彼女がいない」、ということで、いつも誰かにバカにされてるような気がしていた。喉から手が出るほど彼女が欲しかったのに、声すらかけれない自信の無さが、僕に罪悪感をもたらしていたのかもしれない。彼女がいれば、自分に自信が持てる。本気でそんなことを信じていたのだ。だからなのか、社内でも僕に彼女がいないことをよくからかわれていた。しかし反発を声に出せない気の小さい自分は、頭の中の端っこにいる小さいおっさんに向かって「こりゃっ!」と情けない恫喝を喰らわすことでうっぷんを晴らしていた。その度に小さいおっさんは「きょっ!」と甲高い声を上げながら、前頭葉の向こうに消えて行った。頭の中のおっさんに対してだけはいつだって情けないほど強かった。
 僕の頭の中のターンテーブルに「彼女が欲しい」という名前のレーコドが置かれ、そっとユニットが下ろされた。ダイヤモンドの針先は、幾重もの溝に進路を任せた。
 「チェリー、ブロッ、サアームー、うー♪」というメロディーが、僕の口から流れ出た。
【チェリーブロッサム】意味ー桜の花、春の訪れ、初めての経験、など。 
 僕の桜の花には「春の訪れ」と言う名の「彼女」はまだまだ遠い存在なのだろうか。
 
                                  
 出会いは突然やってきた。出会いといっても、身体の裏と表が逆になってしまうくらいの勇気を振り絞って頑張った、僕の『手柄』であった。その勇気の手柄は、僕の人生の舵を大きく切ることとなる。

つづく

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宍戸竜二
イラストレーターと塗装店勤務と二足のわらじ+気ままな執筆をしております。サポート頂けたものは全て大事に制作へと注ぎます!