小説「チェリーブロッサム」第7話
荷物がすべて入ったことを確認し、ぎゅっとバックパックの口の紐を締めた。最後にその締めた口を覆うようにヘッドバッグを垂らせてから、黒いプラスチックのバックルを締めると「カチン」と固く軽い音が静かな部屋に響き渡る。それが完全にバックルがしまった合図だ。そのあとに、閉じたバックルのベルトを「きゅっ、きゅっ」と素早く二度に分けて締めた。ヘッドバッグのファスナーには防犯の為の小さな南京錠がすでにセットされていて、満載された荷物は、たっぷりとそのバッグの容量を占めていた。よし、これで荷物はすべて詰め込んだ「さあ、いくか」と僕は心の中で声をかけた。かなりの重さになったバックパックの右側のショルダーを右の肩に担ぎ、そしてバッグを持ち上げるようにしながら、左側のショルダーも左の肩に担がせた。胸のバンドを止めると肩にはかなりの重さが食い込む。僕は腰のベルトを調節し正面で大きなバックルをガチンと締めた。そのベルトをもう一度締めると、今度は軽く飛び上がるようにバッグの加重を抜き、さらに腰のベルトを引いた。最後にショルダーのベルトを締めると、体全体にバッグの重さは分散した。荷物と体が一体化したような心地良い重さだった。うまく散ったそのバックの重みにインドを想いながら、僕は玄関に向かい腰を下ろした。頭にはKAVUのハットをかぶった。
このインドへの旅の為に、1ヶ月前から履き慣らしたコンバースのローカットのスニーカーを手に取り、丁寧に靴の紐を結んだ。遠足は履き慣れた靴と教わってきたことをここでも僕は裏切らない。僕は融通の利かない律義な男だった。おやつのバナナはそっと頭の中の机の上に置いた。僕はもう大人なのだ、おやつは要らない。すると誰かが僕の耳元で、「バナナはおやつにはいらないよ」と囁いた。僕は再びバナナを一度だけちらっと見たが。また目線を戻した。
靴の紐を結び終えると、バッグの重みを感じながらずっしりと立ち上がった。両足に履かれたその靴を見下ろすと、とてもよく僕の足に馴染んでいた。その履き慣れた感覚は、足の先から脳天へと綺麗に突き抜けた。「これならこの荷物でも、どこまででも歩いて行かれそうだ」僕は興奮を抑えられず、荒い鼻息を思い切り吐き出した。
僕は扉を勢い良く「ガチャ」と開け、そして静かに「パタン」と閉め、ドアノブの感触を確かめながらそっと手を離した。そして光溢れる外に向かい、ゆっくりと右足を前に踏み出し歩き始めた。右、左、右。と旅は静かに始まっ……「ぐえっ!」と声を出し、ドジに段差につまづいてよろけ、左足は捻り気味に、右肩は木の枝に思いきり引っかかり、猛烈な痛みが腕の先へと走った。僕は聞いたこともないような「ぐげぇ、ばっ」と奇怪に叫んだが、苦虫を齧って吐き出したような顔をして、必死に痛みを堪えた。しばらくしゃがんでうずくまり、またずっしりと立ち上がると「あーもう」と小さな声で嘆いた。気を取り直してまた僕はゆっくりと歩き出した。
確かに旅は始まった。つまずいて枝に肩を引っかけたことなど、2歩ほど歩いた所で忘れてしまった。││僕にだって、ポジティブになれる時くらいはあった││駅に向かい、ずっしりとした荷物を体全体で感じながら、リズム良く歩き出した。空はどこまでも青く、日は暖かく、風はさらっと乾いていた。低い電線に止まるかわいらしい小鳥はけたたましくぴーちくぱーちくと鳴き叫び、僕の旅を祝福しているかのようだった。僕は小鳥に向かい「行ってくるね」とかわいらしくくねくねと語りかけた。しかし小鳥は、狙い澄ましたかのように、僕の肩めがけて糞を落とした。僕は今まで一度だってしたこともないような広い角度に腰をひねらせ、ぎりぎりの所で糞を避けた。「あっぶね、この鳥めがっ!」と僕は小鳥に向かい吐き捨てた。その時の僕には小鳥の可愛さなど、すでにどうでもよくなっていた。意気揚々の旅の門出で発した僕の言葉は、「いってきます」などではなく「あーもう」とか「この鳥めがっ!」だった。
まだ日も昇りたての早朝に、僕は予定よりも数本早い電車で空港に向っていた。家から東京までの電車は遅れることで有名な路線だったので、何かあっても良いように余裕を持って乗り込んだ。朝の通勤者の多い車両では、大きなリュックを背負った僕の姿は目立った。そして目立つことが何よりもプレッシャーの僕には、なんだか居心地が悪かった。しかし窓の外を見ると、ぴかぴかと気持ちの良い太陽の光を照らす家の屋根が続き、そのまぶしい屋根を次から次へと目で追った。あの家にもこの家にも、そしてあの道路にもその道路にも、人間のドラマがあるんだろうな。僕はズボンのチャックがたっぷりと開いていることなんて知るわけも無く、眩しそうに目を細め、それなりに格好をつけて佇んだ。「こんなでっかいバックを背負った旅人の佇みを、その他の乗客はどんな思いで見ているのだろう」自意識に浸り切ったドジな旅人を乗せ、電車は車輪を鳴らし続けた。東京駅のコンコースの鏡に写った、僕の全開のファスナーを見たとき、思わずぶりっこな内股で小さく飛び上がり、「きっ」と叫んだ。
「ドジに付ける薬はない」僕の格言である。
初めて来た成田空港のロビーの壮観さに僕は興奮し、目をぴかーと輝かせた。「なんなら鼻まで輝かせてやろうか!」と僕は高揚し、間抜けなトナカイを演じ、僕の妄想も興奮した。
そして搭乗手続きの為の航空会社チェックインカウンターを探し歩いた。地図の説明を何度も何度も声に出して読んでみたものの、僕にはどこに何があるのやらさっぱりだった。キョロキョロしていると、「どうしましたか?」と声をかけられたので、無防備に振り返ると、それはインド人の旅客者だった。僕はびっくりして逃げてしまった。これから一ヶ月もインドへ行くというのに……。しかしそのインド人は追いかけてくると流暢な日本語で強引に地図を見て、怯む僕に親切に場所を教えてくれた。「あ、ありがとう」とお礼を言って体を「バキッ」とまっぷたつに折り、礼をした。お辞儀をすると背負っていたバックパックの重さで思わずフラついた。インド人って親切なんだな。よしこれは旅の為にインプットしておこう。と、こめかみの辺りのメモリーボタンをぽちっと押した。
ふらつきながらインド人に言われた通りに歩いて行いていくと、ようやく窓口を見つけた。パスポートと航空券を受付のお姉さんに渡すと、「ついにここまで来た」とまだ離陸すらしていない現状でさえ、万感の想いが僕の目を潤ませた。その怪しい雰囲気に、お姉さんの怪訝な視線が突き刺さった。僕は搭乗券を受け取ると、逃げるように早足で去った。
セキュリティチェックや出国審査などはスムーズに完了し、いよいよ搭乗となった。待ちに待ったこの瞬間。僕を乗せインドへと送り届けてくれるエアインディア124便。目指すはインドの首都デリーだ。出発ロビーの大きな窓からは、僕がこれから乗り込む予定のボーイング747の巨大な機体がドッグに接岸されている姿が見える。空港に来たのは生まれて初めてで、こんなに間近に機体を見たのも初めてだった。空を飛ぶ豆粒のような飛行機しか見たことがなかった僕には、初めて直に見たそのボーイングの巨体は、これを本当に人間が作ったのか? と、目の前で見ても信じられないほどに僕を圧倒した。
窓にへばり付き、その機体をじろじろと眺めると、大きく「AIR-INDIA」という大きな文字が機体にデザインされいて、垂直尾翼には「コナラク・チャクラ」(インドのコナラクの神殿の車輪)が真っ赤に描かれていた。窓にはそれぞれに、可愛い装飾が施されていた。
「僕は今からこれに乗ってインドまで旅をしにいく。あとはもう乗るだけだ!」窓の外を向きながら目を思いきりつぶり、両方の拳を胸の前で力一杯握りながら小さな声で叫んだ。
搭乗ゲートに到着すると、僕はベンチに座り「地球の歩き方」インド篇を取り出しページをめくったが、もうすぐ離陸と思うとまるで内容は頭に入らず、そわそわと落ち着かなかった。そしてしばらくすると124便の搭乗案内が始まった。待ち合わせていた乗客が「さあ」いう雰囲気で色めき立ち、カウンターに列を作り出した。僕もその流れに合わせ、慌てて立ち上がり列に並んだ。緊張しながらパスポートと搭乗券をカウンターで両手で渡し、そして再び両手で受け取り通路を進んだ。機体に到着し乗り込もうとしたとき、ハッチの周りが気になった。「そうか、このハッチが閉まると、ここに見えている白い壁はすべて機体の外壁そのものなんだよな。細かなリベットも見えるぞ」と、僕はやたらときょろきょろしながらも、職業柄すぐにこのリベットの強度を暗算した。「この外壁に上空の風を滑らせながら機体は飛ぶんだ、僕は空を飛ぶんだ!」そう思うと僕の胸は高揚し高鳴り、ふふふとニヤけた。いよいよ夢見たインドへのフライトが始まる! 僕は軽快に搭乗への一歩を踏み出した。
「ナマステェ」
とサリーを見事に着こなした美人のインド人キャビンアテンダントが、手を胸の前で合わせてお出迎えをしてくれた。僕も「なますてえ」と手を合わし機内に乗り込むと、整然と並ぶ無数の席にびっくりした。「こんなにも席が沢山あるなんて。あっちにもこっちにも、ずうっと向こうまで席だぞ? 一体どれだけの日本人がインドに行くというのだ」
もちろんそんなわけはなかった。ぶつぶつと喋りながら、自分の指定席を見つめ席に着いた。着席してからしばらくしても機内はガラガラだった。僕はなぜだかとてもホッとした。
「機は、あー、まもなく、あー、離陸、あー、しますー」
濃いグリーンの瞳をしたスタイル抜群のインド人キャビンアテンドが、流暢で「あ」の入った日本語で乗客全員に伝えた。そのあとにおそらく同じ内容が英語でアナウンスされていた。
ボーイング747の機体はエンジン音を轟かせながら滑走路に向かった。
僕とゆり子はお互い仕事が忙しかったこともあり、ほとんどのデートが会社の昼休みの1時間、もしくは会社が終わったあとなど、時間が合う時にだけ会社近くのコーヒーショップなんかでおしゃべりをした。
コーヒーのお代わりが自由なこのコーヒーショップで僕らは夢中で話しをし、最高13杯ものコーヒーを飲んだ。二人が好きなドラマにそんなシチュエーションがあって、無理して飲んだのを思い出した。ドラマの中では、彼女が「12杯も飲んだね」というと、手の甲に正の時で数を記してあった彼が、その手の手首をもって記された数字を彼女に見せ「ちがうね、13杯!」そして二人が仲良く笑いながらそのドラマは最終回の幕を閉じる。僕らもまったく同じことをしては大笑いをしていた。僕らは時間を忘れて沢山笑って楽しんだ。僕もゆり子も何よりこの時間を大切にしていた。僕らは喧嘩などすることもなく、いや、僕らは一生喧嘩なんてしないのでは。そう思いながらおしゃべりを楽しんだ。
店の目の前の幹線道路は、沢山の車がヘッドライトを眩しく光らせて通り過ぎていた。僕はヘッドライトと街灯できらめく窓の外と、店内の照明できらめくゆり子の顔を視界に入れながら、この時間の幸せに夢中になっていた。ある日店から帰る道の途中で、僕はゆり子に「ゆり子さんと一緒にいれてとても楽しい」とまだ「さん」づけで言うと、ゆり子も「わたしもよ」そういってゆり子は僕の手を握ってくれた。それから僕らはいつも手を繋いで駅までの帰り道を歩いた。僕が左側で彼女が右側だった。
コーヒーショップのデートを何度も重ねたある日の駅までの帰り道、ゆり子が今度僕の部屋を見たいと言った。
「え⁈」
僕はとても驚き、全身をマナーモードにしながら細かく振動し始めた。
「だめ……かな?」
とゆり子は言った
「部屋き、汚いけど良いかな?」
と僕は言った。なぜか僕は「一度は断る」というような情緒も忘れ、唐突な申し出を簡単に受け入れた。
「もちろん! わたしお掃除は得意よ。女に部屋を片付けられるってのは、もしや、おぬし嫌いなのか? それともまた産まれちゃうの? ははは、くるしゅうない、わたしにまかせなさい」
ゆり子はくすくすとおどけて言った。初対面の時の「今お産まれになったのですか?」での僕の膝の揺れ具合のことを、ゆり子はいつもからかった。この調子が出ている時のゆり子はちょっといたずらっ子だ。僕は人にからかわれることを極度に嫌った。自分が責められているような気がしてならないし、どうリアクションしたらいいかまったくわからないのだ。そんな時は家に帰ってまでぐるぐると思考の駒が止まらなくなる。しかしゆり子に対しては、その発作のようなざわつきは起こらなかった。不思議な人だ。
「き、きらいじゃないよ、もちろん! 産まれないから、あ、遊びに来てよ!」
僕は嬉しいくせに照れてしまい、ゆり子のシャレをひねりもなく真顔で返し、嬉しさを悟られないように懸命の努力をしたが、あっさり見抜かれた?
「そうよね、彼女が部屋に来て掃除してくれるなんて嬉しいわよ、ねー?」
ゆり子は語尾を伸ばすくらい余裕だった。
「あ、それともなんかしちゃうの、この手で?」
とゆり子がにこにこと僕の手を取って、自分の体を触らせるような仕草をした。
「わっ、わ、わー」
僕は本気でドキッとして一瞬、時間が止まったかと思った。
……僕はジャズが流れるステレをのボリュームを静かに下げた。かすかに聞こえるジョン・コルトレーンの囁くような演奏。僕は両手をゆり子の肩にそっと乗せた。ゆり子は少し俯いて僕の胸におでこを預けた。「いいよ……」ゆり子はおでこをつけたまま小さな声で僕に意思を伝えた。僕の心臓の音は耳で聞き取れるくらいの大きさで荒々しく鼓動させてい……
「チョップーっ!」
ゆり子が大げさな手刀で軽く僕の頭を触るように叩いた。僕はドキッとした勢いで、妄想列車網走一番号を発進させて、流氷でも割りに行きそうな勢だったのだ。いや正確には眼をかっと見開き、棒立ち状態で意識を見失っていた。
「なに妄想してたのよ? ねえ。ふふふ。どこ行ってたの? もう帰ってこないかと思ったわ。あはは」
あまりにも私妄想してます。とぼーっとしていた僕を見て、ゆり子はまた小さな可愛い子鹿の目をくりくりとさせながら、小さく「あはは」と笑ってくれていた。ゆり子のいたずらは心臓に悪かったが、とても嬉しかった。
「今週末はお互い土日は休みだもんね」
「あ、ああ」
と、聞き流したように返事をしたあと我に返り、
「ど、どにちい⁈」
驚き過ぎた僕は眉間にしわを寄せ、鬼の形相でゆり子をにらんでしまった。
「ちょっと、こわい、こわいよう、きみー、あはは。……だめかな、土日?」
「え、え、あ、ああ」
土日ということは……。どー、にちと指を折り数える、つまりは連日……「えー!」あんなことやこんなこと! 再び妄想が暴走し、やっと鎮火したかに見えた妄想網走一番号のボイラー室は、また息を吹き返し轟々と薪を燃やした。僕は裸のまま勢い良く水に飛び込み、片っ端から手刀で流氷を割った。僕は嬉しさで流氷を割りまくった。
「そ、そうだ! 休みだ休みだ! ばんざいっ! ばんざいっ! わー」
僕は抱えきれそうにない嬉しさと驚きの感情が滅茶苦茶に混ざり合い、現実に暴れた。大声で道路に向かって「トラックーっ」だとか「軽自動車ーっ」だとか一方的に叫びながら取り乱し、そのあとに至っては「ほうれんそうーっ」だった。僕のボキャブラリーは崩壊した。
隣で体をくの字に折り曲げながら大声で笑うゆり子を見て、妄想網走一番号はどんどんと薪を焼べながらスピードを加速させ、僕を乗せていつまでも汽笛を鳴らした。しばらくあとに絞るように「ぽめらにあーん」と叫んでからの僕の記憶は稀薄だった。ゆり子はまだまだ笑い悶え苦しんでいた。
僕は稀薄になりつつある意識の片隅で、ゆり子が家に来る、ゆり子が家に来る! と何度も何度も嬉しさの拳を握った。
つづく