Step by step
藤原華|編集者さんの、こちらの企画に参加したいと思います。
よろしくお願いいたします。
「なぜ、私は書くのか」
その答えは、ただ一つ。
「生きるため」である。
生きることは本来、それほど難しくはないはずだ。それなのに、時にどうしようもなく難しく思えることがある。どうやっても朝が迎えられそうにない夜は、誰にだって覚えがあるだろう。
そんな夜をいくつも経て、私は、痛みが激しい時に鎮痛剤を飲むように、咳が止まらない時に咳止めシロップを飲むように、心が軋んで苦しさのあまりに「書く」ことを処方した。
食事をして排泄する。
睡眠をとる。
個人やコミュニティと繋がる。
それらと同じ純度で、私にとって「書く」という行為はある。
それは何も、紙と鉛筆で「書く」ことや、パソコンやスマホを使って「書く」こととは限らない。心の中だけで夢想や空想を広げ、見たことのない世界へ飛翔することもまた、私にとっての「書く」ことなのだ。
幼稚園で、ひらがなが読めるようになったその日から、私と「物語」との、甘美で濃密な日々ははじまった。
やがて少しずつ読める漢字が増えてゆき、絵本から児童書へ、課題図書から流行作家へ、近現代作家へと、貪るように、文字通り手当たり次第に、私は「物語」を咀嚼し続けた。
そうした日々の中で、「読む」ことから「書く」ことへ移行してゆくのは、小学生の私にとって、とても自然なことだった。
「物語」はすでに私の中に満ちていて、いくらでも、新たな映像がこんこんと湧いてきた。私は、目の前に広がるストーリーを、自在に動き回る登場人物たちを、「自由帳」に鉛筆で書き写していくだけで良かった。
けれどもそんな蜜月は、突然、あっけなく終わる。
夏目漱石の『吾輩は猫である』に、幼い私は(至極、当前のことだが)大きな衝撃を受けて、「……これが小説なのか! こんなの、書けない……」と絶望したのだ。六年生の、夏休みのことだった。
そんな私がもう一度「書く」ことを志したのは、二十歳を過ぎた頃だった。当時の私は、毎日の生き辛さから逃げるように、古典文学や海外文学を片っ端から、ひたすら貪り読んでいた。
けれども、いくら食べても満腹を知らない呪いをかけられた豚のように、次々と「物語」を摂取しても、私の飢えた心は少しも満たされない。
青春期特有の不健全な承認欲求が、どこまでも私を追い詰め、何者かにならなければ、生きている意味も、価値もないのだと思い込んでいたからだ。私は日ごと、死の淵をすぐそこに眺めながら、足がすくんで一歩も前に進めなくなっていた。
「書く」ことは、そんな私に残された最後の希望だった。
ところが、溢れ出る「物語」を純粋に、ただ書き写していた幼い頃とは違い、明らかな野心を持って挑んだ執筆は、救いになるどころか、大きな痛みと苦しみでしかなかった。
そうして当たり前だけど、どんなに書いても、誰も、承認してはくれなかった。
努力と結果は比例する、などと言ったのは誰だろう。
「ぜひ、新人賞を受けとってください!」という連絡など来ないし、ましてや急に駆け寄って来て「あなたの創作に感動しました!」と言ってくれる人など、一人もいるはずがないのだ。
のたうち回った末にうつ病を発症し、生きることさえ覚束ない昼夜、私は旧知の親友であるはずの「物語」を、棄てた。
「もう二度と、読むことも、書くこともしてやるもんか!」と啖呵を切って遠い遠い道の果てにぶん投げてやった。
思い切り呪詛して。
人生のうまくいかなかったことをすべて「物語」のせいにして。
あれから長い年月を経て、私はもう、すっかり年老いた。
あの日の自分に義理立てするみたいに、私は、「書く」ことはおろか「読む」ことからも遠ざかって、無為な日々を過ごしていた。
仕事も、結婚も、子育ても、すべてにおいて失敗したような、挫折した思いに絡めとられ、惨めさに押しつぶされて、ただ放心していた。
空っぽの箱。
その箱の、底の底にペラリと紙が見えた。その紙には「エッセイ」と書かれていた。そしてもう一枚には「note 」と書かれていた。
うつ病からの回復に「書いて手放す」作業療法が有効である、と知ったのは、丁度その頃だった。
私は今、過去の私と、未来の私へ宛てて、書いている。
エッセイ、小説、俳句、と形は違っても、いつも同じことを繰り返し、書いている。
過去の自分へ、生まれてきてくれてありがとう。
未来の自分へ、あの時の私は、精一杯生きていたよ。
そうして、広い世界のどこかにいるかも知れない、いつかの私のような、迷子になって泣きそうな人へ、そっと隣に座って「こんな人もいたんだよ」と差し出すために。
だから私は「書く」ことをやめないだろう。
私が死ぬまで、生きることをやめないように。