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春の歌

子どもが、小学校高学年だったある日、帰宅してからポツリと呟いた。
「学級委員を押し付けられた。やりたくないと言っても、聞いてもらえなかった」

子どもは、クラスの中では体格が小さい方で、どちらかといえば運動が苦手だったから、同級生から何かとからかわれることが多かった。
だから私はその時、学級委員を務めるという経験が、少しでも子どもの自信につながるんじゃないか、と淡い期待を抱いたのだ。

「人の役に立つことを経験できるのは、決して悪いことじゃないよ」
「誰にでも、できることじゃないからね」
「押し付けられた、て考えるんじゃなくて、君ならできると認められた、て考えるのはどう?」

この時私は、子どもの気持ちを何もわかっていなかった。
私の安易な言葉は、子どもをひどく傷付け、信頼を大きく損なった。


子どもが中学生だったあの日、東日本大震災が起こり、やがて福島原子力発電所のメルトダウン、水素爆発に至った。
計画停電が行われ、原子力に依存する電力供給の問題を突き付けられて、私は俄かに節電を意識しはじめた。

「冷暖房を、少しずつ我慢しようね」
「照明は、できるだけ消そうと思う」
「今さら、電気のない生活はできないけれど、この電気、今いるかな、て考えることは大事だよね」

私の言葉は、どれも確かに正論だったかもしれない。
けれども、否応なく押し付けられた正論は、子どもにとっては偽善としか映らず、やはり大きな不信感を生んでしまった。


そんな経緯があったから、子どもが、大学に進学して環境・エネルギー分野を専攻すると言った時、私はとても意外な気がした。

え?
カーボンニュートラルや次世代エネルギーなんて興味があったの?
「自分だけの正しさを押し付けるな!」て怒ってなかった?

そう思ったけれど、相談ではなく一方的な報告だったので、私は何も言わずに、ただ頷いた。

そうして就職を考える時期になり、子どもはさらに意外な言葉を口にする。

「責任のある、大きな仕事がしたい」
「世界の国々のこれからの発展に、少しでも役立つような仕事を選びたい」

えぇぇっ?
「責任を押し付けられた!」てあの日、悔しがってなかった?
「人の役に立て、と呪いをかけられた!」て恨んでたんじゃなかった?

ケロリと言い放つ子どもを前に、私の思考は追いつかない。


結局、私はただの偽善者なのだろう。
口ではご立派な理念を唱えつつ、いざ我が子が険しい道を選ぶとなると、途端に狼狽するのだ。
子どもが目指すのは、「ブラック」を超えて、もはや「漆黒」と揶揄される業界だ。
暑い時に暑い場所で、寒い時に寒い場所で、長時間労働が課せられる。

空調の効いたオフィスで(節電は?)、負担の少ない業務量で(人の役に立てと言ったのは誰?)、できれば福利厚生がしっかりとしていて(あまりに利己的)……
子どもの労働環境に期待する、私の本音が透けて見える。

けれどもその一方で、子どもの選択に対して私は、口を挟むことも、ましてや止めることも、決してできないのを知っている。
それは、数十年前の自分の姿でもあるのだから。
私もまた、誰が見ても茨の道だった業界に、夢と理想と使命感を輝かせて飛び込んだのだ。結果はあまりにも無残だったけれど、私はきっと、もう一度あの頃に戻ったとしても同じ道を志すだろう。


たぶん、私は今「子どもを信じる」というミッションを課せられているのだと思う。

「やってみて辛すぎたり、違うと感じたら、無理せず他の選択肢を考えて」

親として伝えられるのは、それだけ。
後は「信じて任せる」しかないのだ。

桜の開花と共に今日も、ピカピカの靴と、キラキラの瞳で、たくさんの新入社員の人たちが通っていく。
一人一人の社会人生活が、どうか喜びに満ちたものでありますように。

満開の桜が、風に揺れている。


春の歌 愛と希望より前に響く
聞こえるか? 遠い空に映る君にも

春の歌 愛も希望もつくりはじめる
遮るな 何処までも続くこの道を

春の歌 / スピッツ


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うみのちえ
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