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やさしくなりたい

電動自転車にはじめて乗った日、私は「他者を追い抜く快感」を、文字通り身を持って知った。

軽く踏み込むだけで、ぐんと加速する電動自転車は、登り坂で苦心している見知らぬ誰かをスイスイと追い抜ける。すれ違いざまにチラと横目で見られることもまた、とても新鮮な心地良い体験だった。

幼い頃から駆けっこが苦手だった私は、運動会や競争で誰かを追い抜いたためしがない。あっという間に追いつかれ、追い抜かれていく時の、泣きたくなるような絶望感。前を行く背中はどんどん遠くなり、ゴールまでの距離が永遠に思える。

いつしか大人になって、駆けっこの速い、遅いを問われる機会はなくなり、取り残される淋しさを、私はいつの間にか、すっかり忘れてしまっていた。
電動自転車は、そんな私に全く逆の意味で、他者と競争することを思い出させた。


これまでの人生で私には、容姿に関して辛辣に罵倒された、忘れ難い経験がいくつかある。

「○○くんと話さないで! ブスのくせに!」
中学生だった私は、イジメ被害者の視点でしか考えられなかったけれど、今から思えば、委員会活動とはいえ人気のイケメン男子と親しげに話すことへの、自慢がましい気持ちが心の片隅にあったのかも知れない。
思春期の女子たちは、そういう心の機微や些細な振る舞いに過敏だ。

「あのね、あなた、自分で思っているほど、美人でも魅力的でもないですよ?」
そう知人女性に半笑いで言われた時、私は心底、驚いて、息が止まりそうになった。「自分で思っているほど」と言われても、自己肯定感が極めて低かった私は、ちっともそんなふうに思ったことなどなかったからだ。
その人はたぶん「お前が嫌いだ!」ということが言いたかったのだろう。

「この三姉妹の中で私が一番キレイ、ちえはブサイクね」
私が物心ついた頃からずっと、次姉はそう言い続けてきた。
所詮、同じ両親から生まれた三姉妹だし、それほどの差異があるとも思えないけれど、当人はいたって大真面目だった。
幼少期からそう言われ続けてきて、私は、自分の容姿が平均以下なのだと思い込んでいった。


容姿、学歴、ステイタス、貧富……。
むやみやたらに自分と他者とを比べることの無意味さを、私たちは、もうとうに知っている。
人生は、勝ち負けでもなければ、優劣でもない。
一人一人にかけがえのないストーリーがあって、そこで一生懸命に生きていくしかないのだ。

……それなのに、現実はどうだろう。
隣の様子はやっぱり気にかかるし、他の誰かが褒められれば、祝福しつつも心がざわざわする。
比べて、勝って、安堵したい、という根源的な欲求に、誰もが多かれ少なかれ振り回されている。

そんな自分にうんざりして、私は遠い昔に、心にしっかりと重い蓋をした。そうして、そんな面倒な感情などまるで知らないかのように、自分を騙し続けて生きてきた。

ごく表面的な交流のみを許し、誰の心にも一歩も立ち入らない(そしてまた立ち入らせない)「親密性の回避」は、私の心の平安に一定の功を奏したのだと思う。

そのかいあってか、今でもよく「やさしい人ですね」と言われることがある。
それは私が、感情的に怒鳴ったり、挑発的に煽ったりしないことを指しているのだろう。確かに私はこれまで、声を荒らげて誰かを罵倒したり、掴み合いの喧嘩をしたことが一度もない。

たとえどれほど相手の言動を不愉快に思ったとしても、大抵の場合は我慢して合わせてきた。とにかく、人と争うことを避けたかったからだ。
だから、この場合のやさしさ気弱さの裏返しだった。

「やさしくなりたい」と、今でも私は心から思う。
そうしてそれは「強くなりたい」と同義語でもある。
勝ち負けや、優劣に囚われない強さ。
それは、自分で自分を信じることのできる強さ、でもあるのだ。


毎日を一生懸命に生きている人へ。
たくさん傷ついて生きてきた人へ。
今まさに生きることが辛いと思っている人へ。
目の前の苦しみに絶望しそうになっている人へ。

大丈夫。大丈夫。
あなただけじゃあない。
みんな、みんな、同じ。
人は誰だって、強く、やさしくなれる。
あなたは、あなたを信じてほしい。
私は、私を信じている。


愛なき時代に生まれたわけじゃない
キミに会いたい キミを笑わせたい
愛なき時代に生まれたわけじゃない
強くなりたい やさしくなりたい
愛なき時代に生きてるわけじゃない
手を繋ぎたい やさしくなりたい

やさしくなりたい / 斉藤和義


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うみのちえ
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