最後のバレンタインデー
「好きです! 付き合ってください!」
と勇気を振り絞って告白し、両手でチョコを差し出す。
あるいは朝早く登校して、お目当ての彼のロッカーや机の中に、そっとチョコを忍ばせる。
……そんなアオハルな経験は、残念ながら、私には一度もない。
本当は誰よりも「恋」に憧れていたけれど、「めくるめく恋愛」(何だそれ?笑)はドラマや小説の中だけの話だった。
だから、人生ではじめての「告白」をされた時、私は完全に舞い上がってしまったのだ。
中学三年生の春の終りのことだった。
相手の男子のことはそれまで、恋愛対象として見たことはなかったけれど、そんなことは構わなかった。
夏祭り。クリスマス。初詣。そして、バレンタインデー。
頭でっかちで耳年増の中学生だった私は、少女漫画で描かれているような恋のイベントを、一通りやってみたくて仕方なかったのだから。
バレンタインデーに向けて、私は生まれてはじめてマフラーを編み、チョコトリュフを手作りした。
決して断られることのない、何なら感激して喜んでくれるだろう彼への、安心安全なバレンタインデーである。
彼は、私の想像を上回るほどに、とてもとても喜んでくれた。
「一生、大切にする!」
と言って、網目の揃わないマフラーを、まるで宝物のように丁寧にしまう。
そんなふうに大切にされることに慣れてなくて
「大げさだなぁ」
とか何とか、私はとても気恥ずかしかった。
ところがその夜、ただならぬ様子で彼から電話があった。
待ち合わせの公園に着くと彼は、上着もなしに、いかにも慌てて飛び出して来たような恰好で、目を真っ赤にして待っていた。
「……母さんが、連れて行かれた……」
彼の言葉は震えていて、今にも涙が零れそうだ。
そんな彼を、私ははじめて見た。
お父さんが長距離トラックの運転手をしていて不在がちであることと、小学生の妹さんがいることは、以前、彼から聞いていた。けれどもお母さんのことは、これまでほとんど聞いたことがなかった。
——父さんが帰ってくると、決まって母さんと喧嘩になる
——僕はいつも、母さんをかばって妹を守って
——だけど今夜は、母さんがすごく暴れて
——薬も、酒も、いつもよりいっぱい飲んでて
——叫んで、包丁まで持ち出して
——警察が来て。救急車が来て。それで……
——止めたんだ。必死で頼んで、止めたのに……
彼は、もうそれ以上、何も言えなくなって、私はどうしていいかわからずに、ただそこに居ることしかできない。
今にも泣き出しそうな彼のことを、私は、抱き締めることはおろか、手を取ることもできなかった。
彼の家庭の事情は、当時の幼い私には、あまりにも重過ぎた。
本当は、私の家庭だって同じような闇を抱えていた。
母の、狂気に駆られた言動は外へ知らされることはなく、世間体を気にするあまり専門医の受診さえ禁じられていた。
自分の家庭が他とは違うことに、とうに気付いてはいたけれど、私はずっと目を背け続けていたのだ。
その後、卒業式を待たずに、彼は遠い街へと引っ越して行った。まだ幼い妹さんのためには、選択肢が限られていたのだろう。
それと同時に、私たちの淡い恋愛ごっこは、あっけなく終わった。
私たちは、手をつないだことさえ一度もなかった。
やがて高校に入学した私は、新しい人間関係を築き、新しい恋の相手を見つけていく。
毎年巡ってくるバレンタインデーには、デパートのフェアでチョコを見繕い、時には女友達と「バレンタインパーティー」と称して街へ繰り出した。
そうして私は、冷酷なまでにあっさりと、彼のことを忘れていった。
それから数年経って、二十歳をとうに過ぎた頃だった。夜の繁華街で偶然、あの中学の時の彼を見かけたのだ。
私はその時一人で、雑踏の中を駅へ急いでいた。彼は反対方向へ、女性に腕を絡められながら少し不機嫌そうな表情で歩いていた。そうして私が編んだマフラーに顔を埋めていた。
ほんの一瞬、すれ違っただけだった。けれども決して見間違いようのない、チャコールグレーのブロック模様編みのマフラー。それは長年使われて、すっかりくたびれてるように見えた。
私は息を呑んで、その場に立ち止まったまま動くことができず、少しの間、彼の背中を目で追っていた。
その後の人生で私は、手作りチョコも、手編みのマフラーも、誰にも贈ったたことがない。
お菓子作りと手芸は大の苦手で——。
そんな私の言葉を、疑う人は誰もいない。
ところで、結婚前から夫には、洋酒や日本酒の入ったチョコを選んできた。
ある時、そろそろバレンタインデーを卒業してもいいかな、と打診すると、思いのほか強く抗議された。
僕がこの日を、どれだけ楽しみにしてると思うんだ!と、なぜかキレながら、切々と訴える。
私は思わず噴き出した。
今や、たった一個のチョコだもんね。
そういう訳で、死が二人を分かつまで(何ならその後も、お供えとして)私は夫に、チョコを贈り続けることを約束したのだ。
今年もまた、この季節が巡ってきた。
どうかすべての人に、ハッピーバレンタイン!
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