母の玉子焼き
「人を家に招くことが苦痛で、苦痛で……。どうしても避けられない時は、予定が決まってからずっと憂鬱で……。大抵、体調を崩してしまうんです」
私がそう言うと、カウンセラーは、
「幼少期のご家庭はどうでしたか? 人がよく来ましたか? それとも来ませんでしたか?」
と、私の顔をじっと見つめて問う。
そう言えば、決して来客の多い家ではなかった。
たまに親戚が訪ねてきた時も、母は台所から出てこなかった。母の意志というよりは、世間体を重んじた父の指示だったのだろう。
母の心の病は長く、親戚にさえも伏せられていた。
先日、真ん中の姉と話していたら、たまたま話題が、亡くなった母のことに及んだ。
「その時、私、殺されるのかなぁ、て思ったんだよね。……まぁ、それも仕方ないかなぁ、て」
姉はさらりと、物凄いことを言う。
庭で雑草刈りをしていて、母の手には鎌があったそうだ。
私は幼稚園児、長姉は高校生で、真ん中の姉は中学生の頃だった。
あの頃の病んだ母に、何が見えて、何が聞えていたのか。
毎日が、どれほど恐ろしくて、どれほど辛かったのか。
私たちに知る術はない。
母の病気についてはどこかタブーになっていて、姉妹の間でもこれまであまり、それぞれの体験を話したことはなかった。
幼かった私の記憶は断片すぎて、いくつかのシーンは今も蘇るけれど、姉のような死の恐怖をまざまざと感じた覚えはない。
「お弁当が手抜きでさ、お母さんとしょっちゅう喧嘩したなぁ。だって、ご飯の上にシャケがポン、とかだよ!」
姉は懐かしそうに、笑いながら言う。
「お母さん、何これ!」て、食べずに持って帰って突き出したら、「……シャケだが?」て、漫才みたいなやり取り。
姉の想い出の中の母は、私の知らない顔をしている。
私も確かに、中学高校の六年間、母にお弁当を用意してもらっていた。
しょっちゅう、ご飯が煮汁で茶色くなっていたり、おかずがコンニャクだけだったり、菜っ葉だけだったりしたけれど、そのことに私は一度も、怒りの感情を抱いたことがなかった。
ただ、喉の奥が重く塞がったような苦しさだけがあって、今から思えばそれはたぶん、悲しみだったのだろう。
就職して、あまりの薄給に昼食代が捻出できず、私は毎朝、お弁当を作ることにした。
それまで母に、お弁当に関して不満を言ったことはなかったし、そんな自覚もなかったけれど、自分で作ろうと即座に考えたところをみると、やはり私なりに辛かったのだろう。
前夜のご飯を温め直しておにぎりにし、甘い玉子焼きを焼く。後は、ハムやきゅうりやちくわなんかを、切って詰めただけの簡単なお弁当。慣れれば十分でできる。
昼食時間も満足に取れないような職場だったから、毎日、同じメニューでも一向に構わなかった。
その当時、母は、五時頃にはすでに起床していたように思う。
庭の草木や家庭菜園の手入れをした後は、ひたすら仏壇に向かって長々とお勤めをしていて、私が出勤するまで顔を合わせることはなかった。
幼い頃に、姉の言う「優しい、普通のお母さん」を知らずに過ごした私は、長じてなお、親密な関係を作ることができなかった。
私にとって母はいつまでも、庇って、守ってあげなければならない「弱い人」である印象が強い。
来客はいつも、ひそひそと、あるいは堂々と、母を咎めた。
母は、台所に持ち込んだ小さな丸椅子に座って、蛇口から滴り落ちる水を、ぼんやりと眺めていた。
母が用意した、お茶や料理は廊下に置かれ、私がそれを運ぶ。
こんな異様な光景を、誰も不思議に思わなかった。
私が今も、人を招くことに苦痛や恐怖があるのは、遠い昔に「隠さなければならない家族の秘密」があったからなのだろう。
そして来客は常に、ジャッジし、批判し、咎める、負の存在として、緊張感を持って、私の心の奥底に記録されたのだ。
甘い玉子焼きについて話が及ぶと
「お母さんの玉子焼きでしょ?」
と、姉が言う。
私は全く覚えていなかったけれど、母がまだ「優しくて、普通のお母さん」だった頃に、よく作ってくれたらしい。ただし砂糖が多すぎて、お菓子みたいに甘かったそうだけど。
どんなに記憶を辿ってみても、その甘すぎる玉子焼きを、私は思い出すことができない。
また私が長年、作り続けてきた味とは、きっと違うだろう。
それなのに、どうしてだろう。
お菓子みたいに甘すぎる玉子焼きの味を、私は今、まるで毎日食べていたみたいに、懐かしく想像することができるのだ。
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