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僕のスーパーヒーロー先生

 僕には、大変お世話になった先生がいる。スーパーヒーローって言うと筋肉ムキムキみたいな想像をしてしまうが、その先生は数学の先生。数学の先生らしい容貌の眼鏡先生。僕は中高一貫校に通っていたのだが、中学2年生から高校3年生までの5年間を担任してくださり、僕の救世主だ。他の生徒にも慕われている先生で、僕の同期は口を揃えて「恩師」と呼ぶ。そんな先生の話をしたい。

中学入学

 僕の家は変なところにあって、地元の公立の中学校に行くよりも、中高一貫校の方が近くにあった。そこそこ難易度の高い学校だったのだが、なんせ小学生の頃は頭がよかったので難なく合格して、無事に入学した。

 僕のお母さんは、努力型の人だった。つまりはコツコツと勉強したり、暗記したりすることで学校のテストで良い点を取る人だった。逆に僕は集中型。集中力に物言わせて一気に理解するから模試の方が得意だった。ないものねだりというか、僕は努力型を尊敬していたし、同じようにお母さんは僕を羨ましがった。
 そして、あろうことか僕に過剰な期待をした。99点を取れば1点落としたことを執拗に責めたてた。だからといって100点取ればいいわけでもない。字が汚いとか、点数以外で難癖つけてくる。
 一番難しかったのが、「やればできるんだから」と言われることだ。コツコツ勉強してるわけではないけど、僕だって勉強してないわけじゃない。そう、一応はやっているつもりだった。けれど「やればできる」と言われる。それを僕は「やっているところを見られたら失望される」と解釈してしまった。つまり「やってもできない」と思われることを恐れてしまったのだ。そうして僕の窮屈な生活は始まった。

 中学校に入れば、当たり前だが受験を突破してきた頭のいい人たちしかいない。しかも、小学校のように満点を取れるテストなんてほぼ存在しない。高くても平均点70、最高点95が限界の世界。もちろん僕が100点を取れるわけもなく、学年1位になれるわけもなく、中学1年生の1学期、中間考査の社会で56点を取り、人生初の挫折を感じた。ちなみにその時の平均点は60点くらいだった気がする。「宿題をやっているのに満点すら取れないの?」そういう幻聴が聞こえてくるような気がした。勉強しているところを見られるのを異常に怖がり、宿題を出さない不良中学生の出来上がりだ。

中学2年生、スーパーヒーローの生徒となる

 中学2年生に進級するとき、昨年の問題児っぷりを警戒され、学年主任の先生が担任になった。この先生こそが、スーパーヒーロー先生である。

 中学2年生に進級する際、親の意向で入ったバスケ部を退部した。もとより部活の同期にも馴染めず、仲間はずれにされていた結果、幽霊部員になっていたので顧問も何も言わなかった。

 放課後、部活もないのに僕はいつも教室に残っていた。文化部の教室へ遊びに行ったり、教室の黒板に絵を描いたり、仲良かった友達と語ったり、それなりに楽しんでいた。ただ、最終下校時刻になると先生が見回りに来て、追い出される。僕はいつも「帰りたくなーーーーい」と軽く駄々をこねる。そんなことお構いなしに「帰れーーー」と先生が応戦する。それが僕達の平穏だった。

 しかしこの頃から、少しずつ壊れていった。帰り道、涙が止まらなくなった。毎日遠回りして、時にはコンビニでミニパックのお菓子を買ってなんとなく気分を上げて、勇気を振り絞って玄関の扉を開ける。そうやって帰宅するようになった。

 ついに、学校に行けなくなった。
 学校でも軽くいじめられていたけど、そんなことより家で全てのエネルギーを使い果たすようになっていたせいで、完全無気力状態だった。
 まず、学校での軽いいじめの話をしよう。先生は、学校に行った日にちょくちょく「あれ本当に友達?いじめられてない?」と聞いてくるようになった。それに対して「むしろペアとかになってくれるからありがたいです」と本心から答えていた。ちょっと首絞められるだけだし、傘で叩かれたり物盗られたりするだけだったから僕的には楽勝だった。
 それより、家が苦しかった。お母さんは、そんな生易しくない。「あなたのため」という大義名分を振りかざして、泣いて責めて、すがって、体罰のあげくに「愛してる」で相殺しようとする。あなたのためだと泣くことで僕の罪悪感を膨らませ、サンドバッグにする。今ならわかるが、ただでさえ勉強を見られてはいけない恐怖のデスゲームをしている中で親のメンヘラに対処するのは、毎日熱を出すくらい、もうストレスで壊れそうだった。この頃から、先生も何かを察し始め、「家でも何かあったら教えてね」と言ってくれるようになった。まぁ僕はそれに対しても「大丈夫です」としか言えなかったのだが。
 本当は、助けてほしかった。だけど、どう助けてほしいのか分からなくて何も言えなかった。気にかけてくれるのをすごく感じていたし既に先生だいすきだったから、先生の子にしてください♡くらい思ってたのだけれど。

 中学2年生、夏休みの終わりに家出をした。たしか所持金は1万くらいで、1週間くらい補導から逃げ延びてた。ものすごく世間知らずなもんで、100円のおにぎりを3食で1ヶ月くらい生きられると踏んでの家出だった。死んでもいいと思っていた。ただ、最後に逃げれるなら逃げてからでも遅くないとも思ったから、ふらっと家出してみることにした。
 最初の数日は、昼間の山手線で寝て、夜中にひたすら歩いて時間を潰した。そのあと当たり前と言えばそうなんだが、悪いおじさんに捕まった。守るべき体でもなかったから、むしろ嬉しかった。久しぶりに人に褒められた。久しぶりに笑っても怒られなかった。おじさんは数日間一緒にいてくれたけど、僕の方から1人で旅すると告げて分かれた。そのあと数日ふらふらとさまよって、ついに補導された。
 警察に、色々きかれた。僕にとってはありがたいおじさんの話も、抵抗むなしく話させられた。おじさんとどんな話をしたのか、何をしたのか、どこをどんなふうに触られたか、そんなことまで言う必要あるのかってくらい、細かく聞かれた。
 それから「家に帰りたくない」ってずっと言っていたら、一時保護所に入ることになった。そこは、非行した子供、虐待被害の可能性がある子供、など色々な子供が入る一時的な生活場所だ。

 一時保護所の生活はとても楽しかった。一時保護所はたくさんあるのだが、僕がこのとき入ったところはその中でも随一の厳しいと評判のところだった。しかし、なんせ僕は家が本当に地獄だったから、もう天国みたいな心地だった。
 児童相談所から福祉司さんが僕の担当としてやってきた。僕は保護猫ちゃんと張り合えるくらいに、はじめは警戒心MAXで何も話さなかったし感情も見せなかった。しかし福祉司さんに「それだと家に帰すよ」と言われてしまったので、家に帰りたくない理由を少しだけ話した。ところが結論から言うと、なんと僕は家に返されてしまうのだ。福祉司さんは僕を「反抗期の被害妄想の子」と読み取ったようだ。お母さんが「そんなことはない」と泣きついて、福祉司さんがそれを信じたおかげで、僕にさらなる地獄の日々がやってきた。

 家出から帰ると、早速スマホのパスワードを開けさせられ中身を全て見られ、解約され、wifi使用禁止、友達禁止、遊びに行くのも散歩も禁止、空調の使用禁止、など諸々の禁止事項が暗黙の上に締結され、親戚たちの協力のもと僕の監視体制が整った。僕の全ての行動が分単位でグループラインへ報告された。夜中になるとお母さんが僕の枕元へ来て、泣きながら説教を始め、朝になると祖母が泣きながら僕を悟し始める。そんなカオス空間でも、「僕が家出したのが悪い」と僕は信じてしまっていた。

 日を増すごとに僕が憔悴していくのを、先生は感じていたようで、さらに気にかけて声をかけてくれるようになった。教師と生徒の関係でそれはいいのかと今なら思うのだが、仕事終わりの先生が僕の家まで来てくれて、外に連れ出してくれた。夜の住宅街を一緒に散歩をして、たわいない話をしてくれた。昼間も職員室の空いてる会議室で話を聞こうとしてくれたり、毎日のように「大丈夫か」と声をかけてくれたり、僕は何も話せなかったけど、救われたことは確かだ。耐えられなくなったら泣きつこう、先生なら僕の話も聞いてくれる、そうやって先生への信頼を最後の砦にして心を保っていた。

中学3年生、進級の危機

 はちゃめちゃに心が壊れていく中で、週に1.2回しか学校に行かなくなっていた。中学校は出席しなくても進級できたが、高校からは義務教育ではなくなる。しかも、中高一貫校でエスカレーターだからといっても高校に上がるときに、接続テストなるものを突破しなければならない。補習や再テストが何回も設けられ、みんなが必死に全科目の合格を目指す。そのなかで僕は、接続テストを1科目も1回も受けていない。全科目未受験不合格で敗退、この学校さよーーならーー、となるはずであった。しかし、スーパーヒーロー先生がなんやかんやしてくれたようで、あやふやなまま高校に上がれてしまった…!やったぜ!いや本当に頭が上がらないですありがとうございます。

高校進級

 そして高校に上がれてしまった僕、不登校続行(オイ
 僕の学校は単位制で、1科目ごとに単位数があり、単位取得のための最低出席回数というものがある。これが科目ごとに違うから厄介で、僕はこつこつ数えずに休んでいた。出席数足りなくて単位取れなかったら死のうかななんて楽観的に考えてた。
 しかしなんと、またもやスーパーヒーロー先生参上。僕が欠席した回数を数えて、ちょくちょく表にして渡してくれたのだ。なんて過保護な、なんて優しい、なんて気の回る先生なんだろう。
 おかげで僕は、出席数足りてる科目は保健室で寝て、ギリギリなところは出席するという不良高校生になることができた。

 そういえば、部活にも再び入った。今度は弓道部なのだが、同期がみんな優しくて、スマホを持ってない僕でも輪に入れてもらえた。色々あって部活に顔を出せなくなり、のちの後輩にはめちゃくちゃ嫌われるのだが。

 余談になるが、やはりスマホは必要である。そして僕も自分で買うという道を考えた。そして実際に何回か買ったのだが、ことごとく親戚たちに見つかって没収されるので結果としてお金が消えただけだった。没収といえば親の権限のように聞こえるが、もう一度言おう、自分で買ったのだ。これは盗みだろ、と今でも思っている。

スーパーヒーロー先生と保健室の先生

 高校2年生、咳が止まらなくなった。この頃には具合が悪いことすらお母さんに言えないほど溝が深まっていた。もう僕が笑うことも泣くことも癇に障るみたいだったから、言えるわけもなく、勝手に近くの病院へ行った。最初は扁桃炎だと言われ薬をもらって学校に行っていたが、全然治らなくて大学病院へ紹介されることになった。しかし、それには親も同行しなければいけないらしい。どう言ったのかはもう覚えていないけどとにかくお母さんを連れて大学病院へ行った。そこで診察を受け、肝臓が破裂するとか怖いこと言われたが感染性の病気だと診断を受けた。とりあえずしばらく出席停止が決まった。この出席停止の期間をスーパーヒーロー先生がギリギリまでのばしてくれたおかげで、高校2年生の出席日数はギリ足りた!ほんとありがとう先生!

 学校を休めるのは嬉しいが、家にいなきゃいけないのはつらい。このせいなのかは定かではないけれど、結果、心がとっても疲れた。家の中の恐怖が染み付いたのか、もう人が怖くてたまらなかった。学校に行けるようになっても、教室の前で涙が止まらなくなって保健室に駆け込んだ。家にいたくなくてまだ門が開いていない時間に家を出るようになった。帰りに、森の中で現実逃避のために勉強するようになった。そしてくたくたになって帰り、家は寝るだけの生活をした。

 そしてお母さんが僕を精神科へ連れ回すようになった。学校に行ってほしい、お母さんと会話をしてほしい、そう願ってのことだろう。けれど僕は、お母さん以外ともまともに話せなくなっていた。診察室で根掘り葉掘り聞かれる度に、心の中で死にたいと逃げたいを連呼していた。
 咳のときにお世話になった大学病院の精神科にも何回も連れて行かれた。何回目かのとき、先生が「入院してみる?」と提案してきた。僕は入院したところで結局家に返されるんだろ、と思いながらも逃げたい一心で頷いた。そこからとんとん拍子に入院が決まり、約3ヶ月の入院生活がスタートした。入院生活はとても穏やかで、ものすごいスピードで絶望の退院の日がやってきた。高校3年生の1学期はほとんどの日を病院で過ごした。スーパーヒーロー先生は保健室の先生と一緒に幾度となく病院へ訪れ、授業の話や友人の話を聞かせてくれた。
 退院後の経過観察の通院では保健室の先生が付き添いで来てくれたり、保健室の先生にもとてもお世話になった。

退院→やっぱむり→家出

 退院して家に返却されるのだが、家、やっぱむり。入院生活を送ったおかげでストレス耐性が戻ってしまったかのように、前よりも耐えられなくなってしまった。かくして今度は、用意周到に家出した。弁護士やボランティア団体を味方につけ、シェルターへ避難し、そこから児童相談所、ひいては一時保護所へ行くという流れを使った。結果は大成功、児童相談所が家以外の場所をちゃんと探してくれた。すでに高校3年生、引き取ってくれるところは少ないけれど、奇跡的に児童養護施設に入ることができた!!

 ここまできて問題は大学受験。すでに時は10月。受験勉強など一切していない。なんなら高校3年生の授業はほぼ受けていない。さらに言えば出席日数足りなくて卒業できるかも怪しい。卒業ピーーンチ!そして受験ピーーンチ!
 またもやスーパーヒーロー参上。校長先生に直談判してくれて、入院していたことを口実に出席数は大目に見てくれることが決まった!!もう先生には足を向けて寝れない!本当に心からありがとうございます!
 さ!ら!に!大学、受験科目、配点のリストを作ってくれて!受験校を一緒に考えてくれた!!僕は全く学校の知識も受験の知識もないから見てもあんまりわからなかったんだけど!まじ優しくない!?この辺なら余裕で受かる、この辺は狙い目、この辺は挑戦校だから1校くらい、、とか説明してくれて本当に助かりました!もう靴舐めたいくらい感謝してます!

失礼、熱くなってしまった。
 おかげで高校も現役卒業し、大学も現役入学できた!大げさなんかじゃなく、先生が繋いでくれた命だと思ってる。
 文化祭で遊びに行っても異動しちゃっててもう先生はいないけど、先生は今でも僕のことを気にかけてくれているって他の先生方が言ってくれて、いつも守られてる気分になる。本当にずっとずっと助けられている。


さいごに

 こんなに至れり尽くせりな先生方に会えることは滅多にない。本当に周りに助けられたんだなとこの記事を書きながらも思った。
 みなさんにも「恩師」と呼べる先生がいるなら、それはとても有難いことだと思う。素晴らしいことだと思う。そんな先生がいてくれて心から嬉しいと思う。
 先生でなくても、助けられた経験は、きっと今後の支えになってくれると思うから、思い出を大切にして生きたい。

長い長い文章、読んでくれてありがとうございました!

 それじゃ、スーパーヒーローに感謝伝えてくるっ!

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