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200817 終わらせること

 やろう、と思ったことをきちんとやれた日だった。

 先日、急に仕事を休んだ日に日記を書いた。涙が出るほどどうしてもしんどいと思ったことがあって、そこから逃げて何もできずに終わった日だ。できたといえば、積んでいた東野圭吾の白夜行を半分くらいまで読み進めたことと、あの日記を書いたことで、あとは全体的にだめだめな日だった。
 どうしてもしんどいと思ったことに似た予定が今日は入っていて、仕事なのだし、いい加減逃げてばかりはいられないので、昨晩はたいへん憂鬱で読書もなかなか手につかなかった。昨日は、小川洋子を読んでいた。最近少し道を逸れて、違う作家の本、主にエッセイを読んでいたのだけれど、結局やっぱり小川洋子を読みたくて、読み始めた。そういえば、あのだめだった日の直前に、小川洋子の自宅ストックが切れていて、だから積んでいた東野圭吾を読んだんだった。

 密やかな結晶と題されたその小説は、ナチスドイツによるユダヤ狩りを強く彷彿させる内容で、記憶狩りによってあらゆるものごとや人々が消滅していく島の話。忘れる、というのは、生きていくのに必要なことだ。しかし、物語で忘れられていく、失われていくものは、鳥だったり、フェリーだったり、オルゴールだったり、カレンダーだったり、私たちの生活を当たり前に彩るなにかたちだった。どんなことがあっても、忘れるはずがないものたちが消えていく、不在になっていく。あらすじからして絶対面白いだろうな、と思っていて、やっぱり面白い。
 半分くらいまで読んで、そして冒頭に戻る。休日だった昨日は、平日に転換しようとしていて、仕事が待っていて、そして以前は逃げたことが待っていて、憂鬱に押しつぶされそうだった。そうした焦燥混じりの感情で読み進めるには少し勿体なかったので、ちょっとゆるい気持ちで読めるエッセイを読みたく思い、阿久津隆さんの読書の日記を手に取った。ゆるい、とは言ったが、中身がゆるゆるに脱力系なわけではなくて、ごつさとゆるさが不思議と融合した日記。読むのに力を必要とする本の引用部分だとか作者の思考だとか、かと思えばするりとすりぬけていくようでもある。すべて日常的な出来事ばかりだからだろう。人の日記ってどうしてこんなに面白いんだろうな、と思いながら読み進めて、200ページあたりで閉じた。
 そうしたら、なぜだか何かを為したい、という気持ちが湧いてきた。人の日常に触れたせいかもしれない、誰かが生きていた道のりに触れたからかもしれない。そうして、やりたいと思っていたことをひとつ終わらせた。夢中になっていた意識が途切れて、は、と息を吐いて思い出したように視線を上げると、日付線を越えて来てほしくなかった今日が音も無く始まっていた。ひとつ何かを為した、という事実が、自分自身を少しだけ強くした。

 逃げずに今日の仕事を終えた。やってみたら、一日なんていつか絶対に過ぎていくもので、終わってみればたいしたことなかったりする。あの日も、それをわかっていた。でも、どうしても無理だった、それはもう、そういうときもあるよね、という風にしか言えなくて、でも今日はきちんとやり遂げたよ、過去の私へ。

 やろう、と決めていたことをきちんとできた日だった。やりたいと思ったらまずやってみよう、というのが去年秋頃からの自分のテーマだけれど、やりたいが分散しすぎて雁字搦めになる日がある。何かを終わらせていかなければならないのだ。何かを選ぶということは、何かを捨てる、ということでもある。やりたいと欲張るのは自由だけれど、終わりがあるとわかっていることは、始めたからにはいつか終わらせる意識を持っていよう、と思った昨日と今日。終わらせる、のタイミングは、ものによりけりでしょう。締切りが存在してその日を迎えたらいやでも強制終了の時もあれば、合わないと思って自主的に終わらせるかもしれないし、もっと漠然と単純に飽きてフェードアウトしていくことだってありがちで、そして満足いくまでやりきって終わらせるやり方もあるだろう。いつか終わらせる、ということを抱いていないと苦しくなるし、そしていつか終わる、ということは希望になることもある。永遠に終わらないものなんてない。永遠に終わらない地獄なんて、きっとない。生きることだって、いつかは終わりがくるのだから。

 自ら終わらせて、そして時間が終わらせてくれた、そんな一日だった。今日がもうじき、終わろうとしている。紅茶を飲みながら、本の続きを読もうと思う。いつかやってくる、終わりへ向けて。

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小萩うみ / 海
たいへん喜びます!本を読んで文にします。