冬の海
「一人で冬の海に行って来た」と妻が言う
それは夕飯を食べる前のことで食卓にはとんかつの用意が出来ていた
「物好きだな」と何でもない風にぼくは笑ってみせたけれど
「風が冷たかった」と呟いた妻の声が食卓に届くと
どこからか不穏な気配が忍び寄るのが不思議だった
車で二十分も走れば日本海があり
夏には海水浴にもよく行っていた海だった
一人で冬の海に行って来た
けれども妻がそう言うだけで
味噌汁から立ちのぼる湯気がふっと止まった気がして
何かあったのかと問いたくなる言葉も凍りついて
おかしな不安に襲われるのはどうしてだろう
灰色の空とそれよりも暗い色をした海を思い浮かべ
妻がよく着ている黒のオーバーコートと臙脂色のマフラーを思い浮かべ
風にいいように裾をはためかせては
たった一人で海を見つめて佇む妻の姿を思い浮かべたら
これはただ事ではないような気がして
何かが起こり始めているのではないかと気ばかりが焦る
一人で冬の海に行ってきた
食卓の上のものをすべて薙ぎ払う妻の一言は
本当は何一つ変化を与えてはいないのに
譬えようもない渦とうねりの破壊力で何かを変えてしまった
仕事の悩み実家の問題それともぼくに何か原因があるのか
妻は先に食べてていいよと促すが
一人で冬の海を見てきたと伝えておいて特に意味がないとは思えない
不穏な気配とおかしな不安と得体の知れない焦慮のせいで
妻の背後にまるで防波堤にぶつかった荒ぶる波が
どーんと白い飛沫を高く上げる冬の海が見えた気がしたのだが
そんなものはたった今ぼくが勝手に拵えた幻想に決まっている
対面式キッチンの向こうにいた妻は蛇口の水を細くして手を洗い
何でもない風に向かい側へまわって普段通りに席に着く
「いただきます」とようやくぼくから出てきた言葉も結局は普段通りで
とんかつを箸でつまみ二人で互い違いにサクサクと音を立て合っている
何も疚しいことはないはずだから
冬の海を持ち出すのはズルくないかと今笑いながら言ってみようか