高熱で聴くマーラー 【エッセイ】
最初に買ったクラシック音楽のCDを覚えている。モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク KV525』である。
クラシック音楽に興味を持つようになったのは学校の音楽の授業ではなく、小説だった。特に純文学と呼ばれる作品には、クラシック音楽が登場するものが多い。まったく聴いたことのない曲名や曲の番号、初めて目にする作曲家の名前などが文章の中に出てくると、私は何ひとつイメージすることが出来ず、いつももやもやした思いを残したまま、仕方なく先へ進むという読み方をしていた。私はそれが不満だった。教養が不足している自分に不甲斐なさも感じていた。クラシックに詳しくなれば、今よりもっと小説を理解できるようになるのではないか。それに……クラシックを聴いている自分ってちょっとカッコイイ……。自惚れと勘違いが強かった私は、そんな風にしてクラシック音楽に興味を持つようになった。二十代の初め頃のことである。
貯めたお金でビクターのコンポーネントステレオを買ったのはちょうどその頃だった。私はこれを機会にクラシックを聴き始めようと考えた。今と違ってネットがなかった時代である。当時、埼玉に住んでいた私は、草加駅の近くにあった「HAYASHI」というレコード店で、気になった作曲家のCDを、ちびちびと購入していくことにした。
モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』は、今までにも何度か耳にしていた曲だったが、たまたまFMラジオで流れていたときにその作曲者と曲名を知った。弾むように軽快で、ノリノリのクラシック。私はその曲がとても気に入ってしまった。今になってみれば、最初のクラシック入門がモーツァルトだったことは、最良の選択だったように思う。特にそのあとに購入した『交響曲第40番ト短調 K.550』には心底惚れてしまった。何回聴いても飽きなかった。聴けば聴くほど発見があり、味わいも深かった。自分にとって相性が良かったのだと思う。
モーツァルトの音楽を知っておいて良かったと思ったのは、宮本輝の『錦繍』を読んだときだ。この小説には「モーツァルト」という名の喫茶店が出てきて、モーツァルトのシンフォニーが重要な意味を持つシーンが書き込まれている。文中に曲名が出るたびに、私はそれを頭の中で鳴らすことが出来た。主人公の女性と喫茶店の御主人がモーツァルトを語るときの言葉が、沁み入るように理解できたことが嬉しかった。これこそが、私がクラシックに興味を持った本来の理由だった。
私にはもう一人、特別に興味を抱いていた作曲家がいた。グスタフ・マーラーである。曲は一度も聴いたことはなかったが、あの当時は文芸誌を開けば「マーラー」の名前が必ず目に飛び込んでくるほど、世の中はマーラーブームだった。
私はいつもの「HAYASHI」に行って、最初に聴くマーラーを選ぶことにした。マーラーはいくつかの歌曲集を除けば、『大地の歌』を含む1番から10番までの交響曲しか残していない寡作な作曲家である。ただ、その交響曲は長大な作品がほとんどで、二枚組にしなければCDに全曲収まらない作品が半数にものぼる。私は《巨人》というタイトルが付いている『交響曲第1番 ニ長調』に決めた。これは一枚で聴けるので、初めてのマーラーということでは順当な選択だったろう。毎回悩むのは指揮者である。どれが名盤なのかも分からず、私はただの勘でレナード・バーンスタインを選んだ。先に買ったモーツァルトも、バーンスタインの指揮だったからだ。
マーラーの1番を初めて聴いたときは衝撃だった。PLAYボタンを押してカウンターも進んでいるのに、なかなか第一楽章が始まらないからだ。いや、実は始まっていた。極めて小さな音量で、長い長い持続音がスピーカーから微かに聞こえていたのだ。モーツァルトの交響曲の、分かりやすい序奏に慣れていた私は、この導入部にすっかり驚いてしまった。そのうち、カッコウの鳴き声を模した演奏が聞こえたり、急に彩色が豊かな音色が滑り込んできたりと、私は聴きながらひどく混乱した。これがマーラーかと思った。後になって思えば、古典派音楽の形式にとらわれないロマン派音楽による洗礼だったわけだが、私は終始戸惑いながら聴き終え、この音楽は自分にはよく分からないという印象を抱いたのだった。
時は流れ、私は埼玉を離れて東北の故郷に戻っていた。仕事の合間に相変わらず本を読み、音楽もジャンルにこだわらず聴いていた。マーラーは分からないなりにも、ぽつりぽつりと聴き続け、気が付いたら全交響曲を買い揃えていた。レーベルも指揮者もまちまちだが、全曲聴けるというのはそれなりに安心感をもたらしてくれる。
ある日、インフルエンザで高熱を出した。風邪だと思って無理をしたのが祟ったのだ。薬を処方してもらったが熱は下がらず、この上ない怠さに私は襲われていた。あまりにも辛いので、このまま自分は死ぬのだろうと、半ば本気で思った。
ときどきポカリスエットを口にして、あとはただ寝ていることしか出来なかった。テレビも無理、本も読めない。ただ、音楽だけは聴いていられた。モーツァルトには治癒力がある、と作詞家の松本隆が書いた小説に、そんな文章があったことを思い出した。宮本輝も、病気のときはモーツァルトのレクイエムを聴く、とどこかに書いていたのを読んだ記憶があった。私は試しにモーツァルトが死の直前まで作曲していた『レクイエム ニ短調 Kv.626』を、枕元のミニコンポで聴いてみた。気のせいか絶筆となった「ラクリモサ(涙の日)」までは気分が落ち着いて、回復の兆しを意識できた。これが、音楽の持つ治癒力というものなのか。
このとき、ふとマーラーを聴いてみようと思った。マーラーなら一曲が長いのでずっと聴いていられるという単純な発想である。1番の《巨人》を聴き、それから『交響曲第2番 ハ短調「復活」』を再生した。タイトル通り、体調が復活することを願いながら。私はこのときから、マーラーを順番通りに全曲聴いてみることを試したくなった。時間だけは存分にある。ロマン派音楽は、ともするとただそこで鳴っているだけ、というような聴く者の意識から気配が消える感覚をもたらすことがある。熱に浮かされながらだが、私はそんな瞬間にもじっくり付き合おうと、ベッドに横臥しながら音楽に耳を傾けたのだった。
うつらうつらしながら聴いていたところもある。寝てしまって聴き飛ばした部分もあったと思う。だが、私は順番通りに10番までマーラーを聴き、その上で思ったのは、高熱で苦しかった私をもっとも癒やしてくれたマーラーの曲は、『交響曲第5番 嬰ハ短調』と『交響曲第7番 ホ短調「夜の歌」』であり、どちらも重々しく暗澹たる導入部を持つ短調の曲だったということだった。そして、弱った体と心に寄り添ってくれるのは、明るく煌びやかな長調の曲ではなく、今の自分の状態を反映した暗い曲が、もっとも共感しやすく安心できるということだった。
私はマーラーのCDをケースから取り出すとき、底に敷いていた円形の保護マットをたびたび目にしていた。それは、購入したときにレコード店から貰えるショップのロゴが入ったサービス品だった。私はそのCDマットを見て、3番と8番以外は、すべて「HAYASHI」で買っていたことに気が付いた。ショップのロゴを見るたびに、私はクラシックの棚の前でCDを選んでいたあの頃の自分を思い出した。色々な演奏が少しずつ録音されているサンプルCDも何度か頂いたことがある。それを聴いて、私は次に買いたい音楽を探したものだった。残念ながら、今はそのお店はなくなったと聞く。たった一人で聴き始めたクラシック音楽だったが、私にクラシック音楽を教えてくれたのは、間違いなくそのお店だった。ありがとう。私はそう伝えたい。もう誰にもこの言葉は届かないかも知れないが。
【付録】今回登場した音楽のリスト(所有のCD)
■モーツァルト
『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』指揮:クルト・レーデル
『交響曲第40番・第41番』指揮:レナード・バーンスタイン
『交響曲第40番/第41番「ジュピター」』指揮:ラファエル・クーベリック
『交響曲第40番ト短調 他』指揮:ブルーノ・ワルター
『レクイエム』指揮:ヘルムート・リリング
■マーラー
『交響曲第1番 ニ長調《巨人》』指揮:レナード・バーンスタイン
『交響曲第2番 ハ短調「復活」』指揮:ロリン・マゼール
『交響曲第3番 ニ短調』指揮:エサ=ペッカ・サロネン
『交響曲第4番 ト長調』指揮:ロリン・マゼール
『交響曲第5番 嬰ハ短調』指揮:ロリン・マゼール
『交響曲第6番 イ短調「悲劇的」』指揮:サー・ゲオルグ・ショルティ
『交響曲第7番 ホ短調「夜の歌」』指揮:サー・ゲオルグ・ショルティ
『交響曲第8番 変ホ長調「千人の交響曲」』指揮:ロリン・マゼール
『交響曲「大地の歌」』指揮:レナード・バーンスタイン
『交響曲第9番 ニ長調』指揮:ロリン・マゼール
『交響曲第10番 嬰ヘ長調“アダージョ”』指揮:ロリン・マゼール
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