横光利一『機械・春は馬車に乗って』《砂に埋めた書架から》1冊目
横光利一は、大正時代の終わりから戦後にかけて、日本の文壇で活躍した作家である。
同時代には芥川龍之介、川端康成らがおり、実際に交流も持っていた。
また、横光は従来にない革新性をはかった「新感覚」というリアリズムの手法を導入した「新感覚派文学」をリードする存在であった。
彼の代表的な傑作はやはり『機械』であろう。
ネームプレート製造所で働く主人公が、周囲の人間に対して疑心暗鬼に陥る心理が、意識の流れに沿って巧みにすくい上げられ、饒舌なスタイルで描かれている。
装飾的に挿入される聞き慣れない化学薬品名も作品内で効果を上げており、初めて読むと、真に奇妙な小説として忘れられない印象を残す。
これと似ている『時間』という作品もまた奇妙で、旅をしながら芝居をする一座の座長が売り上げを持ったまま遁走してしまい、とり残された役者たちが、宿賃を滞納した宿屋から夜逃げを画策して実行する、という話なのだが、背景の説明は一切ないまま、夜逃げの一点に絞って話が進んでいくことに私は瞠目した。
その逃亡の過程を『機械』と同じような手法で主人公の心理を追って饒舌に描くのだが、それでいながら他に大勢いる役者たちの様子まで描き分けてしまう横光の筆致は圧巻である。
私は随分前に作家の筒井康隆氏がテレビで『機械』を朗読するのを視聴したことがある。
筒井氏は息継ぎを抑えるかのように早口で読み上げていた。しかし、それは、読点と句点を厳粛に守る誠実な朗読スタイルからくるものだとわかってきた。
『機械』という作品は息の長い文章が多く、読点も少ない。一気呵成に読み上げることが、この文章が持つリズムと合致するということが、次第に理解できたのである。
『機械』『時間』といった、心理を重点的に描いた作品も面白いが、そればかりではない。
病妻の棘のある言葉の応酬が、最後には美しく昇華する『春は馬車に乗って』。
ナポレオンに皮膚病の田虫を絡め、没落を鮮やかに予兆させるきわめてモダンで技巧的な『ナポレオンと田虫』。
隣家の加藤夫婦が深い余韻を与える『睡蓮』。
戦前の日本人と外国人の心温まる交流『罌粟の中』。
など、どれも横光の多才ぶりが窺える作品ばかりだ。
それにしても横光利一の短編を読んでいると、これらの作品が戦前に書かれたものだということをついつい忘れてしまう。
古くさい、と感じることが不思議とないのだ。
むしろ、現代の小説よりも感覚がみずみずしいことに私は大変な驚きを感じた。
この短編集で唯一戦後に書かれた『微笑』は、一層、その才能が深化したような読み応えがあった。
昭和の文学はこれから再度見直されていくだろう。
書籍 『機械・春は馬車に乗って』横光利一 新潮文庫
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■追記■
この書評(というよりは感想と推薦文)は、2010年9月に作成したものです。誰も訪問しないうら寂れた自作のwebサイトに載せていました。
冒頭の「新感覚派」だのなんだのは、よくわからず書いています。たぶん、知的に見せたかったのでしょう。一体誰に格好付ける必要があったのか。
文章の最後にも「……昭和の文学はこれから再度見直されていくだろう。」と、今見るととってつけたようなことを格好付けて書いていて、さすがにこれは(おまえ何者だよっ)とツッコミを入れたくなるくらい恥ずかしいのですが、けれども、これを書いているときは本当にそう思ったのは間違いないことなので、この一文も削除せずに、noteに投稿することにしました。
この作品集の中では、今でも『時間』の印象が強く残っています。変な小説だからでしょうか。いい小説だからでしょうか。
ちなみに、横光利一の妻、千代夫人の出身地が、私の地元でもあることから、横光利一は郷土にゆかりのある作家として取り上げられることがあります。
実際、『機械』や長編小説の『上海』は、地元にあるいくつかの温泉地で執筆されています。それだけでも一方的なシンパシーを私は寄せてしまうのですが、千代夫人がおそろしく美人であることも、どういうわけか嬉しかったりします。
『春は馬車に乗って』のモデルとなった女性が亡くなった翌年に、二人は結婚しています。千代夫人は結婚前から横光利一のファンでした。