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山本周五郎『青べか物語』《砂に埋めた書架から》33冊目

 時代小説の書き手として有名な山本周五郎だが、そのため、時代小説が苦手だという人は、一生、周五郎の小説を手に取ることはないかも知れない。
 でも、この『青べか物語』だけは、山本周五郎の小説を読んだことがない人にも、ぜひ手に取ってもらいたいと私は思う。こういう現代小説も山本周五郎は書いているのだということを、多くの人に知ってもらいたいからだ。

 舞台は大正から昭和初期の漁師町である。貝や海苔が採れたり、釣り場としても知られている浦粕町というところだ。あの東京ディズニーリゾートがある千葉の浦安がモデルである。実際、若かりし頃の周五郎は、この町におよそ一年間暮らしていたという。

 物語は「蒸気河岸の先生」と辺りの住人から呼ばれていた主人公の私(周五郎を思わせる)が、浦粕に足かけ三年ほど住んでいた頃の身辺スケッチ、という体裁をとっている。

 一話ごと違うオムニバス形式で、分量もさほど多くないため、気軽に読める。浦粕の住人たちが個性的なのもいい。小さな漁師町にときどき事件が起きる。ページをめくるのが楽しくなる。しかし、読み進むうちに、だんだんと読者は作家山本周五郎の凄さに気付いてくるのだ。一篇一篇のクオリティの高さに。さりげない文章の中に恐ろしいほど深い意味を持つ言葉が投げ込まれていることに。

 この時代の性事情も、作品を読んでいくうちに垣間見えてくる。それは私にとって、驚きとともに非常に興味深い内容を湛えたものだった。この地域の人たちの性についての発言や行動は、虚飾にまみれていないがゆえに率直であるが、かといって即物的でもない。男女の間で最終結果を求めるのであれば、男は女の性について率直に知ろうとするべきであろう。私はこの小説の中にいる浦粕の女たちに、そう教わったような気がしている。

 最後に、私の印象に強く残った収録話を記しておきたい。

「蜜柑の木」
「砂と柘榴」
「繁あね」
「もくしょう」
「経済原理」
「あいびき」
「毒をのむと苦しい」
「留さんと女」

 次に読んだときは、また違う話を好きだと思うかも知れない。それだけバラエティに富んでいる。

 私は『青べか物語』の最終話「三十年後」を読み終えたとき、自然とこんな感想が湧いてきたのを覚えている。ああ、自分はこれからも山本周五郎という作家の本を読むことになるのだろうな、と。

 そうだった。私はこのとき、新幹線の中だった。埼玉での生活を終えて故郷に戻り、再度、これから一年間の約束で、東京で暮らすことになっていたのだ。これからの一年は、文章修行の期間になるだろう。そう思っての上京だった。
 私はこの本を閉じ、バッグに突っ込み、そうして都会の音と匂いに包まれた、東京駅に降り立ったのだった。


書籍 『青べか物語』山本周五郎 新潮文庫

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◇◇◇◇


■追記■

 この書評(というよりは感想文)は、2005年11月に作成したものです。

 山本周五郎は生涯、文学賞というものを受け取らなかった作家として知られています。獲れなかったのではありません。受賞を打診されても、本人が受け取らない意向を伝えていたのです。
 特に『日本婦道記』(1943)で直木賞の受賞が決定していたにも関わらず賞を辞退したことは有名です。周五郎なりに文学に対する信念を貫きたかったのでしょう。傑作を多く書き上げてきた周五郎だけに、その後も何度か受賞の機会はありましたが、すべて固辞しています。今回紹介した『青べか物語』も、本来なら文学賞を授与されていた作品でした。

 直木賞を断ると言えば、現役作家では、選考を辞退した伊坂幸太郎氏、直木賞に訣別を宣言した横山秀夫氏のことが記憶に新しいかと思います。受賞すれば人生に少なくない変化をもたらす大きな賞です。選考する側も、される側も、大変ナーバスになることは想像に難くありません。それ以外にも、作家には矜持というものがあります。授与された賞によって失うものがあるなら、あえて辞退を選択をするのも厭わない、ということなのだと私は理解しました。作家の生き方に通じることだと思います。

 庶民を描く山本周五郎の人間ドラマを読んでいると、人間を見ていなければこういう作品は書けないなと強く感じます。時代小説ではありますが、新潮文庫の『大炊介始末』に収録された『なんの花か薫る』という岡場所が舞台の短編を読んだとき、私は吹き飛ばされたような衝撃とともに、切なさといじらしさとつれなさで、感情がぐしゃぐしゃになったことがあります。そこには人間がいました。女と男が、そこにはくっきりと描かれていました。

 誰だったか、山本周五郎は小説の一行目で人を泣かせる、と言っていました。まだ周五郎のことを知らなかった私は、何を大袈裟な……とそのとき思いましたが、あるとき、ちょっとしんみりとした気持ちのときに本屋に行って、文庫の棚の前でその言葉を思い出したのです。それは山本周五郎の『さぶ』という小説で、私はその本を手に取って、最初の一行目を読んでみました。たった一行でした。たった一行なのに、私は目頭が熱くなって胸が締めつけられました。そのときの精神状態もあるかも知れませんが、ああ、これが山本周五郎か、と私はその場に固まったまま詠嘆したのでした。

 なので、今も『さぶ』は読まないままにしています。

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