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愛しい顔

短編小説

◇◇◇


 雨の日にお墓参りをした記憶がある。お盆の十三日だった。

 わたしがこれからする話は、二十代の頃に足繁く通っていたスナックのマスターから聞いた風変わりなアルバイトの話であって、実のところ、お墓参りとは何の関係もない。けれどもマスターの話を聞いたあと、わたしの中で子供時分に経験した雨の日のお墓参りの記憶が強く思い出されてきて、その二つはなぜか分かち難く結び付き、何年も経っているというのに未だ忘れられないでいる。

 あれはたしか、小学三年生のときだった。その夏のお盆は珍しく母の実家で迎えていた。

 母の生まれた地域は柿の生産が盛んで、近くの小高い山には、柿を栽培している農園が多く見られた。村の寺が管理している墓地は、そんな山の丘陵につくられており、四方を柿畑に囲まれたようなところにあるのだった。

 その日は朝から雨が降っていたが、お墓参りは朝にするものという昔からの言い伝えに従い、花や供物を手に傘を差し、皆でぞろぞろと墓地へと続く坂道を徒歩で上った。道の両脇にあるのはすべて柿の木だった。濃い緑色の葉が、雨に濡れて艶を放っていた。初めての景観に物珍しさもあって、わたしは傘から頭を出して、きょろきょろと辺りを見回していた。すると、すぐ後ろを歩いていた伯父が、柿の木からは絶対に落ちるなよ、落ちたら死ぬぞ、と唐突に言ったのだった。

 振り向くと、水の入った薬罐を持っていた伯父が、わたしの顔を見てにこっと笑顔を浮かべた。その隣で新聞紙に包んだ菊の花を抱えている伯母は、「落ちるとたいへんだから登らないで」と真面目な顔で言うのだった。二人は、わたしがあまりにも熱心に柿の木を見ていたので、木登りをしたがっていると思ってそう言ったらしい。

 わたしは、はなから登るつもりはなかった。以前、母の実家の庭にある栗の木に登ってみせたことがあったため、腕白盛りで木登りが好きなのだとみんなから思われているのだ。わたしはただ体格が小柄で身軽だったに過ぎない。雨の日は木が滑るし、だいいち、服が濡れる。

 登らないよ、と伯父たちに返事をしたが、子供だったわたしは今からお墓に向かっていることもあって、伯父たちのその言葉にゾッとしたのだった。

 墓地は見晴らしのいいところにあった。柿畑に囲まれてはいたが、大きく間隔の開いた木の間から麓の集落を望むことができた。雨天でなければもっと遠くまで見渡せただろう。

 母の実家のお墓は黒い御影石でつくられ、灯籠も付いている立派なものだった。大人たちがお供え物を用意したり花を立てたりしている間、わたしは傘を差したまま、隣の区画にぽつんと置かれている石を眺めていた。それは石としか言いようがないものだった。黒ずんだ色の、たとえるなら、大きさも形も一升炊きの炊飯器に似ている石で、それが苔むした地面の上に直置じかおきされていた。その手前に雨曝しになったコンクリートブロックがひとつ転がっていて、わたしはどこからか迷い込んできたカタツムリが、そのブロックの側面にある三つの空洞の一つから這い出して、二本の触角を伸ばしているのを見つけたのだった。そばに行ってにじり寄り、もっとよく観察しようとしたとき、母の声が聞こえた。「気を付けて、そこは余所のうちのお墓だからね」。わたしは驚いた。

 母によると、この石の下には亡くなった人が埋葬されているはずだという。すると、石は墓石ということになる。わたしはお墓というものには必ず文字が彫られていると思っていたので、何の変哲もないただの石に衝撃を受けた。そして、子供ながらに随分とみすぼらしいお墓だとも思ったのだった。

 ちょうどそのとき、後ろに人が来た気配がして、伯父や伯母たちが挨拶を交わしている声が耳に入った。母が、「こっちにおいで」とわたしの腕をつかんで立ち上がらせた。背後にいたのはお墓参りにやってきた老夫婦で、まさに石がぽつんと置いてあるお墓の前で立ち止まったのだった。わたしは、大人たちが話す会話の断片を聞いていた。「孫の七回忌が去年で」と男性の声。「りっちゃん、もうそんなになるんだ」と伯父の声。「私らより早いなんて」と女性の声。「明るくて可愛らしい子でね」と伯母の声。「美人だった、本当に美人だった」と男性の声。傘に雨の音が当たってうまく内容は聞き取れなかったが、その石の下には老夫婦の孫が埋葬されているらしいとわかった。横になって倒れていたブロックを男性が起こし、上向きにした空洞に女性が供花を挿しているのを見て、そういう風に使うのかと理解した。わたしは老夫婦の二人が傘を差してしゃがみ込みながら、それらの作業をしているところをしばらく見ていた。さっきのカタツムリが苔の上を這って、石に近付こうとしていた。母に声を掛けられるまで、わたしは雨に濡れている石だけのお墓から目を離すことができなかった。

 お墓参りから帰ったあと、伯母が古いアルバムを見せてくれた。今まで知らずにいた母の若い頃の写真があって、わたしは珍しいものを見たときのような気持ちで眺めた。「ここに写っているのは、りっちゃんだね」と伯母が言うと、母もその写真を覗き込んで「りっちゃんだね、中学に上がった頃じゃないかしら」と言う。わたしは、ついさっき、お墓参りで出会ったあの老夫婦の「孫」のことを話しているのだと察した。その写真は、毎年行われていた村の海水浴行事のときのものらしく、海の家のような吹き放しになっている屋内で、大人たちと子供たちが揃ってかき氷を食べている場面を写したスナップだった。

「柿のお手伝いに一所懸命な子だったよね」と母が言い、伯母が「その柿に命を取られたんだから、家族にしたらやりきれないだろうね」と言った。伯母によれば、そのりっちゃんという女の子は、柿の収穫のお手伝いをしているときにあやまって柿の木から転落し、それが元で亡くなったのだという。まだ十五歳だったそうだ。わたしは、傘を差してしゃがんでいた老夫婦の姿を思い出すと同時に、「美人だった、本当に美人だった」と話していたその子の祖父にあたる男性の声を思い出した。するとどういうわけか自分でもよくわからないのだが、アルバムに貼られたスナップを指差し、どの子がりっちゃんなのか訊ねてみたくなった。伯母が「目のくりっとした色白の子よ」と言い、母は「黄緑色のタオルを首に掛けてるでしょう」と教えてくれた。わたしはそのあと、長い間その写真を見ていたのを覚えている。

◇◇

 わたしが勤めを辞めて、生まれ育った故郷に戻ったのは二十六歳のときだった。それまでは東京と埼玉で自動車に関連する精密部品の営業をしていたが、身体を壊したのを機に一度原点に立ち帰り、人生の再スタートを切ろうと目論んだのである。故郷は東北の日本海側に面した地域にあったので、新鮮な魚介をはじめ美味しい食べ物が豊富だった。そのうえ空気は澄み、目に優しい自然の緑に囲まれていた。壊した体は日増しに改善されて元の健康体を取り戻したが、再就職は望んだとおりにはいかず、実家暮らしをしながらアルバイトで糊口を凌いでいた。そんな頃、地元の友人と初めて訪れたスナックで、この店のマスターと知り合ったのである。

 マスターはわたしのちょうど十歳上だった。スナックの経営を始めたのが三十になる直前で、その前は東京で超が付くほど有名な企業の営業をしていたという。「ぼくら、同じ東京Uターン組じゃないか」とマスターがわたしとの共通項を見つけてウイスキーで最初の乾杯をしてからは、二人で話が盛り上がった。マスターがことのほか話し上手だったせいもあるが、こんなに楽しいと思った夜も久しぶりだった。

 それ以来、わたしはこのスナックに足繁く通うようになった。お酒を楽しむためというよりは、マスターから楽しい話を聞き出すために。

 水曜日は店が暇なんだ、とマスターが言っていたので、わたしは仕事を終えて夕食をすませると、足早にアーケードを通って途中の細い路地に身を滑らせた。午後八時。店名のロゴがデザインされた白いネオンサインの明かりを見てほっとする。木製のドアを開けると、カウンターの中にいたマスターが、THE BOOMの「島唄」を熱唱していた。グレーのヘンリーネックシャツを着たいつものラフな格好だった。マイクを置いて、「いらっしゃい、今日は来ると思っていたよ」とわたしの顔を見て親しみを込めた微笑を浮かべると、マスターは七脚あるカウンター席の真ん中にわたしを案内した。ほかに客の姿は見当たらなかった。おしぼりを手渡してくれるマスターに、「俺が最初の客ですか?」と訊ねると、「そう。水曜日はいつもこんな感じだ。逆にこういう夜こそ、人生を語り合うにはちょうどいい」そう言って、爽やかな笑みとともにグラスに氷を入れ、最近のわたしのお気に入りであるアイラモルトを注いでくれた。

 実は先週もわたしはこの店に来ていた。アルバイト先の女子社員に告白をしてフラれたばかりだった。傷心の状態で店に訪れると、わたしの様子を気にかけたマスターが、じっくりと話を聞いてくれたのだ。薄給のアルバイト風情が正社員に恋情を抱くこと自体がそもそもの間違いだった、と自分の推察でフラれた理由を口にすると、マスターは即座に「それはまるっきり見当違い」と断定した。「いろいろ話を聞かせてもらったけれど、その正社員さんは君に対して誠実な態度でお断りの返事をしたようにみえる。ひとりの人間として真面目に君と向き合ったからこその答えだろう。身分だの経済力だの、そんな上っ面の条件だけで人を計るような女性にはとても思えなかったが……違うかい?」。わたしはハッとした。マスターの言う通りだと思った。自分の卑小な考えで、好きになった女性を知らず知らず言葉で貶めてしまっていた。わたしは猛省した。

「それに」とマスターは言った。「男と女の惚れた腫れたは、地位とかお金とか関係ないところで衝突事故のように起こるのがこの世の常でね。うん、突然だが今日はぼくから、この歌を君に贈らせてもらおう」そう言ってマスターは、背後にあった大画面のモニターに通信カラオケのリクエストコードを表示させた。開始された曲は、尾崎豊の『シェリー』だった。わたしは以前から思っていたのだが、このスナックは客よりもマスターが一番多く歌っているイメージがある。かなり変わった店かも知れない。けれどもマスターの歌声は、聴いていていつも心地が良かった。そして、その夜の『シェリー』は、思った以上にわたしの心に沁みたのだった。

 傷心に沈んでいた先週と比べて、わたしはすっかり回復して普段の調子を取り戻していた。「顔色が全然違うねえ」マスターはそんなわたしを見て喜悦の表情を浮かべると「次の恋に向かってもいい頃だな」とさっそく煽るようなことを言ってくる。

 わたしはふと、前から気になっていたことを訊ねてみたくなった。マスターは日頃から若い女性客の恋愛相談にのってあげることがよくあった。カウンター席しかない店なので、そのとき居合わせた客も相談に耳を傾け、親身になって励ましの言葉を掛けてあげることもしばしばあった。そういう環境をこのスナックに作り上げているのは、マスターの才能ともいえるものだ。わたしはマスターがこれまでどんな恋愛経験をしてきたのか知りたいと思っていた。特に、東京で暮らしていた時代の話に興味があった。

「いろいろあったなあ」とマスターは言った。「東京でのことはとても一晩で語りきれるものではないが、今夜はほかに誰もいないから、こういうときでないと話せない内容のものにしようか」

 わたしは嬉しくなり、ぜひ聞かせて欲しい、と言って身を乗り出した。マスターは、わたしにお代わりのウイスキーをつくり、自身も焼酎の梅干し割りをつくったあと「乾杯」と言ってグラスを合わせた。

「東京にいた頃はぼくも二十代で若かったから、女性との交流はそれなりにこなしてきた方だと思う。でも……そうだなあ」そう言って、マスターはカウンターの中にあるスツールに腰を掛けたあと、腕を組んで空中を見上げる仕草をした。「君が聞きたがっていることからは少しズレるかも知れないが、一時期、女性を集めて合コンを開くアルバイトをしていたことを話そうか。『渋谷コンパニークラブ』って言うんだけど」

◇◇

「一九九一年だったかな、まだ携帯電話が普及していなかった頃の話だ。営業をしていると、同年代の知り合いがあちこちに増えてくる。そうなると、懇親会や合コンをしようという話が持ち上がってきて、ぼくは幹事のようなことをよく引き受けていた。そのうち、君は宴会の仕切りが上手だねえ、と相手先でも評判になって、顔も覚えてもらえるようになる。すると面白いことに営業の成績も伸びてきたんだ。

 ぼくは特に幹事が苦ではなかったから、頼まれればほいほいと引き受けていた。そのおかげで都内の飲食店に詳しくなり、人集めも得意になっていた。あれはいつだったかなあ、休日に悪いが合コンを開くので手伝ってもらえないか、と知り合いから頼まれた。その知り合いというのが広告代理店の人間で、雑誌を発行している出版社も絡んでいたと思うが詳しい話は端折るよ。とにかく、渋谷にある指定の飲食店で合コンを開く、参加者に楽しんでもらうために追加サービスを用意し、ときにはねるとんパーティーのような告白タイムのある企画を準備してそのサポートもする、とそんな内容だった。いかがわしいものではなかった。『渋谷コンパニークラブ』なんて名刺まで用意してもらって、アルバイト代も支給されるというので、ぼくには断る理由がなかった。実際、やってみたら面白かったしね。同じ仕事を任されているスタッフはほかにも何人かいて、通常は二名でその合コンの仕切りをやっていたよ。

 大きなトラブルはなかったけれど、一番困ったのは女性参加者のドタキャンだね。人数を合わせないといけないから不足分は現地で調達しなければならない。つまりナンパだ。急いで黄昏時の渋谷の街に飛び出して声を掛けまくった。公園通りでは駅に向かっている女性には声は掛けない。公園通りの坂を上ってくる女の子だけに声を掛けた。その理由は単純で、坂を下りて駅に向かっているのはこのあと家に帰る人が多いから。確率を上げるためには坂を上ってくる女性だけに狙いを絞る必要があった。あとは水色の服。あの当時、水色のトップスを身に着けている女性に声を掛けるとほぼほぼ参加してもらえることに気付いたんだ。たぶんはっきり断ることができない優しい子が多かっただけかも知れないけれどね。とにかく一刻をあらそう事態だったから、水色のカーディガンだの水色のワンピースだのを見つけると、それ行けーっ、水色だーっ、という感じで走って追いかけてたな。

 今更だが、ぼくがこの話をしようと思ったのは、ナンパの話をしたかったからじゃない。渋谷コンパニークラブのスタッフとして一緒に働いたひとりの若者のことを思い出したからなんだ。ひとつの合コンを仕切る際、ペアを組む相手はいつも決まっているわけではなくて、そのときのめぐり合わせだった。いろんなスタッフがいたけど、ぼくが相方として一番やりやすかったのがその彼でね。細やかな気遣いができるうえに、行動も機敏だから、一緒に仕事をしていてとにかく楽だった。観察眼に長けていて、酒がなくなりそうなテーブルなど全部把握していたし、誰とも話せなくてぽつんと孤立している参加者がいるとスッと近付いて対話のきっかけをつくってあげるのも彼はうまかった。容姿は美麗、声も聞き取りやすい優しい声でね、参加者にドタキャンがあっても、彼はあっという間に街から調達してくる。しかも連れてくるのはとびきりの美人ばかり。さすがにぼくも彼には適わないと思った。東京は広い、こんなにすごいやつがいるんだと思ったよ。しかも彼はまだ二十一歳で法学部の学生だった。黙っていてもモテるのに性格がいい。会がお開きになったあと、彼にアプローチをしてくる女性の参加者を見なかったことがない。とにかく色気のある若者だった。

 あるとき、彼とペアを組むことになったパーティーで、ぽっかりと時間に余裕ができたことがあった。ラウンジのソファーに座って二人で休憩を取っている間、ぼくは好奇心から彼に訊ねたんだ。君ってすごくモテるよね、これまでかなり多くの女性を泣かせてきただろうから、この仕事でもかなりの数の女の子に手を付けてきたんじゃないの? という感じで。ぼくも彼の色気にあてられて照れくさかったから、わざと品のない言い方でイジったんだ。二十人はもう喰っちゃった? とかね。すると彼は、謙遜する感じでもなく、『そんなこと、一度もしてないですよ』と真面目な顔で答えるんだよ。ぼくは信じられなくて、ひとりくらいは何かあったでしょう? と訊いても『ないです、ないです、本当にないです』と真剣な顔付きで言う。ぼくもだんだんと、これは本当かも知れないと思うようになってね。すると彼が、『自分には好きな人がいるんです。中学のときから付き合っている彼女です』と打ち明け始めたんだ。ぼくはふざけるのをやめて、彼の話を真剣に聞くことにした。その彼女は母子家庭で育ったらしく、たいへんな苦労をしながら彼と同じ大学を受験し、給付型の奨学金をもらえる成績で合格したそうだ。彼も将来は検察官を目指し、彼女と彼女のお袋さんを早く楽にさせてあげたいという。つまり、彼は真剣に彼女との結婚を考えているというのだ。もう人として完璧だとぼくは思ったよ。そのあと、彼がこう言ったんだ。『彼女の写真をいつも持ち歩いているんです。見ますか? 自分のお守りです』。ぼくはすぐさま頷いたね。何人もの女性にアプローチされても決して靡くことのなかった彼が、心の底から惚れ抜いている女性。彼の方から『見ますか?』と聞かれて、興味が湧かないわけがなかった。財布の中から取り出されたプリント写真を彼から受け取ったとき、何だか神々しいものを手渡された気持ちになったよ。すぐには拝見できなかったね。目が潰れそうで。一度深呼吸をしたあとに写真を見た。うん。まるっきり蛙だった」

◇◇

 そのあと、マスターがどんな話をしたかは覚えていない。ちょうど客が訪れて、話はそこで中断したままだった気がする。ただ、わたしがここまでの話を今でもこうして覚えているのは、マスターが語り終えたあと、雨の日にお墓参りをした子供のときの光景が頭に浮かんだからだ。あれは墓標というのだろうか、雨に濡れて黒ずんでいる何の変哲もないただの石を置いただけのお墓。それに手を合わせている老夫婦。りっちゃんと呼ばれていた孫のことを、美人だった、本当に美人だった、と話すその男性の声。そして、アルバムで見た十五歳で世を去ったというりっちゃんの写真が、流れるように蘇ってきたのだ。理由はわかっている。蛙だ。わたしはそのりっちゃんという子が写っているスナップを見たとき、蛙みたいな顔をした女の子だと思ったのだ。

 小学生だったわたしは、写真の中のりっちゃんをとても長い時間、それこそ穴があくほど見つめていたのを覚えている。美人という言葉と、くりっとした愛らしいその目と目の間が離れて独特の愛嬌を感じさせる面差しが、あのとき自分の中で強固に結び付いたのだろう。好みの顔というのは、得てしてそんな風に後天的につくられていくものではないだろうか。

 マスターはあの話の中で、きっと「蛙」のことをあまりいい意味で使ってはいなかったと思う。もちろん、話の文脈からそんな感じがしただけで、実際は違うかも知れない。ただ、渋谷コンパニークラブの有能なスタッフだった若者の恋人が、もしも蛙みたいな顔をした女性だというのであれば、わたしは有能な人間はさすがだ、よくわかっている、とあのとき賛辞を送りたいほどだった。誰かに非難される筋合いはない、自分がいとしい顔だと思うものは、美人で間違いないのだ。わたしはそう思う。

 昔のことを、こんな風に次々と思い出す夜も珍しい。夜の九時に仕事から帰宅すると、保育園に通う五歳になる息子はもう寝ていた。妻が言うには、息子が園庭に植えてあった栗の木に登ろうとしているところを保育士の先生が見つけたそうだ。急いで下に降ろしたから事なきを得たそうだが、先生たちをひやひやさせてしまったらしい。

「似ているなあ、小さい頃の俺と」

 わたしは愉快だった。だが、妻の心配ももっともだった。

「落ちたら怖いじゃない。先生たちが心配するのもわかるでしょう」
「そうだな。明日、俺も言い聞かせておくよ。栗はいいけど、柿の木には登るなよ、ってね」
「何それ」
「昔、伯父さんに言われたんだ。柿の木から落ちると死ぬぞって。ほかの木と違って、柿は枝がしなることなく急にポキンと折れるらしい。不意を食らって受け身を取る間もなく地面に叩き付けられるから、打ち所が悪くて亡くなった人が昔はたくさんいたそうだ」

 このとき、わたしの中で、雨に打たれて黒ずんでいた墓標のイメージが不意に立ち上がってきた。

「柿の木なんて、保育園にあったかしら。今度訊いてみるね。そうだ、それよりさあ、ちょっと聞いてよー」

 妻が乾燥機から取り出してきた洗濯物を、テーブルに広げてたたみ始めたので、わたしもそれを手伝った。

「夕方さあ、保育園にヒロキを迎えに行ったとき、またヨシトモくんが私の顔を見て、『ケロケロママ! ケロケロママ!』って連呼するのよ。やめさせるにはどうしたらいいの」

 わたしは想像してニヤニヤした。

「笑いごとじゃないんだからね。私はすっごく恥ずかしいの!」

 わたしがシャツを二枚たたんでいる間に、妻は残りの衣類やタオルをすべてたたみ終えていた。妻はそれを重ねてひとつにまとめると、わたしの前にぐいっと押して寄越した。「笑ったバツよ。クローゼットに収納よろしくね」

 ごめん、ごめん、とわたしは謝った。謝りつつも、ニヤニヤはまだ止まらない。わたしは幸せだった。

(了)



四百字詰原稿用紙約二十四枚(8,876字)



◇◇◇

■参考動画

『シェリー』尾崎豊




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