吉田音『Bolero』《砂に埋めた書架から》42冊目
小説の話をする前に、まず「クラフト・エヴィング商會」について説明しなければならないであろう。
デザイナーである吉田篤弘・吉田浩美の夫妻によるユニットであり、その活動は、書籍などの装幀やデザイン、そのほか文章、イラストなど多岐に亘っている。手がけた作品には、斬新でユニークな試みが加えられており、懐古趣味や幻想趣味の趣向も見受けられる。
今回紹介する『Bolero 世界でいちばん幸せな屋上』という小説は、「クラフト・エヴィング商會プレゼンツ」と銘が打たれており、全面的に彼らがプロデュースした本であることを示している。
クラフト・エヴィング商會の特色のひとつに、実際には存在しないものを、さも実在するかのように創出してしまう、というのがある。例えば写真。実在しないものなのに、写真としてそこに写っていれば、実在感が備わるわけである。
『Bolero』も、クラフト・エヴィング商會ならではの趣向がふんだんに凝らされていて、非常に素敵な一冊になっている。作者の吉田音(よしだおん)は、吉田夫妻の娘にあたるらしい。1986年東京生まれ。年齢は、14歳である。※
来年高校受験を控えた主人公の女の子「おん」。彼女の近所に、円田(つぶらだ)という学者の男が住んでいる。彼は黒猫を飼っていて、その名前が「Think」。シンクは不思議な猫で、ふらりと夜の散歩に出掛けると、口に“おみやげ”をくわえて帰ってくる。それは、あるときは「カクメイ」だの「バクダン」だのと、物騒なメモ書きのある紙くずだったり、またあるときは「1001」と数字がデザインされたチョコレートの包み紙だったりするのだ。シンクが拾ってきたものを手がかりに推理を働かせるのが「ミルリトン探偵局」のメンバー、おんと円田である。二人が結成した「ミルリトン探偵局」は、解ける謎でも決して解かない、解かずに考え続ける「探偵局」なのだ……。
おそろしく面白い小説だった。文章は簡単な言葉でやさしく流れるように読ませてくれる。
この本には、シンクがくわえてきた実際の品物などを写した写真のページが挿入されている。実におしゃれで不思議な魅力をたたえた品々である。おそらく「実際には存在しない物」の写真だが、一見の価値はある。本当に素敵なのだ。
小説の構成は、最初に主人公のおんや円田の周辺で起こる出来事が描かれ(SIDE A)、次の章では、まったく別の場所にいる別の人たちが登場し、その周辺が描かれる(SIDE B)。そして次の章では、またおんと円田に戻り、さらに次の章では、これまでとは別の新しい人物が登場し、新しい場所での出来事が語られるのだ。物語はそうやって、レコード盤のように(SIDE A)そして(SIDE B)と交互に進みながら、やがて少しずつ繋がっていき、最後はひとつの世界に綺麗に統合されるのである。それらの違う二つの場所を唯一行き来するのが黒猫のシンクであり、とても重要な連絡役なのだ。
スパイスの輸入卸業者、ラジオのDJ、レコード店の店主、ホルン奏者、タクシーの運転手……この小説には、章ごとに、様々な職業の人物が登場するが、特にピザ屋の皿洗いのバイトをする若き青年たちを描いた最終章の「ボレロ」は出色の出来栄えだ。希薄な人間関係の上に成り立つ青春期の微妙な仲間意識を、鮮やかに切り取る作者の手並みはただ者ではない。これを書いたのが本当に14歳なら、作者の吉田音は、たいへんな才能の持ち主である。
先ほども述べたが、「実際には存在しない物」を創り出すのがクラフト・エヴィング商會の特色であるなら、この小説の作者の「吉田音」も、本当は実在していないのではないだろうか? とても14歳の年齢の少女が書いたとは思えないほど手堅い文章なのだ。実在していたとしても、実作者はこのユニットで文章を担当している吉田篤弘氏であるように思うのだが……。
しかし、こう思わせることも、『クラフト・エヴィング商會』の仕掛けのひとつなのだろうか?
書籍 『Bolero』吉田音 坂本真典/写真 筑摩書房
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■追記■
この書評(というよりは感想文)は、2000年7月に作成したものです。(※)
もう真相は明らかにされているので、語ってもいいでしょう。やはり、「吉田音」は架空の作家でした。実作者は思った通り、吉田篤弘氏です。
私はこの本を手にした当時、クラフト・エヴィング商會の存在も知らなかったので、なんてお洒落な本なんだ! とまず驚きが大きかったです。そして、作者の年齢と、その文章力に驚愕し、そして、疑いました。小説の中で扱う素材が、中学生の少女が書いてみせるには、手に余るものに思えたからです。
また、今になって思えば、巻末の著者紹介のページにもヒントがありました。吉田篤弘・吉田浩美の両氏を紹介するところに、『著者の「生みの親」の紹介』という風に、意味深長な標題が付けられています。見事なダブルミーニングと言えるでしょう。
灰色のシックな表紙、タイトルなど文字の配置、配色、帯のデザインなど、今見てもハイセンスな装幀です。私はこれに惹かれて、見知らぬ作者でしたがこの本を手に取りました。薔薇やぬいぐるみやアップル・パイなどの口絵や写真のページがあり、いささかガーリーな雰囲気もありましたが、文章は読みやすく、目次もお洒落な言葉が並んでいて、私は直感で購入を決めていました。詳しく見ていくと、感想でも述べたように、物語に登場する重要なアイテムを、写真として検分出来るような凝った造りになっています。さらに、後で気付いたのですが、ハードカバーの単行本には、二つ折りにされているリーフレットが挟み込まれており、それは単なる広告のちらしでなはく、本編の一部といってもいい意味を持つ印刷物なのです。本という出版物を最大限に利用した非常に面白い試み、仕掛けといっていいでしょう。
肝心な小説の内容も、非常によく出来ています。シンメトリーの考察は、読んでいてワクワクしました。この『Bolero』は、ミルリトン探偵局シリーズ・2 にあたるものです。私はシリーズの2から読んだことになりますが、なんら差し支えはありませんでした。シリーズ第一作は、『Think』です。副題が「夜に猫が身をひそめるところ」となっています。
残念なことに、吉田音の著作は以上の二冊しかなく、いずれも絶版で、現在は古本でしか買えないようです。
最後に、最終章「ボレロ」は、ある意味で吉田篤弘さんらしい小説だという感じがします。センチメンタルで爽やかで音楽に溢れて美しいです。物語の中で異色な存在感を放つ「皿洗い長」のことは、私は今後も忘れることはないでしょう。