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失恋ソングの使い方

短編小説

◇◇◇


 車を運転しながら聴いていたラジオからその曲が流れてきたとき、すべての時間が止まったようだった。

 コンビニの入り口で偶然擦れ違った女性からふわりと漂う香水を嗅いだとき、あの日に時間が戻ったようだった。

 友人を待つために初めて入ったバーで出された菫色すみれいろのカクテルを一口飲んだとき、凍らせていた時間が解けていくようだった。

 六年間付き合っていた女性からさよならを告げられたのは、梅雨明けした先週のことだった。別れてから時間が経っていないせいか、些細なことが彼女の面影と繋がってしまい声を上げそうになる。泣けるものなら泣きたい。その場に跪いて、切なさで潰れそうな胸の内を吐き出したい。こんなとき、世の大人たちはどこで泣いているのだろう。男たちはどうやって胸の痛みを鎮めているのか。いい歳をしてからの失恋が、こんなに苦しいものだとは思わなかった。

「今夜は悲しい歌を歌おう。こんなときは歌が効く」

 友人が誘ってくれたのは、改装オープンしたばかりのカラオケルームだった。友人は、失恋に効く一番の薬は、悲しい歌を聴くか、哀しい恋愛映画を観ることだ、と以前から熱弁している男だった。生気を失っているおれには、歌でも酒でも、今の自分を救ってくれるものなら何だってありがたかった。

「メルちゃんも呼んだからあとで来る。もうひとり、詩人も呼んだ」

 友人はそう言って、でかい図体には似合わない繊細な手つきでマイクとスピーカーの音を調整し、通信カラオケのコントローラーで選曲メニューを呼び出したあと、親切にもそのコントローラーを、ソファーにぼんやりと座っているおれに、わざわざ手渡ししてくれた。

「いいか、今日は、間違っても明るい歌は歌うな。まずはバラードからいこう」

 友人の言葉に従い、おれは尾崎豊の『OH MY LITTLE GIRL』を選ぶ。壁に設置されたモニターを見ていた友人は、選曲した曲名が表示された瞬間、嬉しそうに腕組みをしながら「いいね」と言った。

 歌い出しから泣きそうになった。メロディーが美しすぎる。隣で歌詞を追いながら聴いていた友人も、「沁みるね」とひと言漏らしていた。

 間奏の間、友人が「おまえのその彼女って、何歳の人なんだ?」と訊いてきた。

 おれは、自分の十歳下だと答えた。

「そうか、彼女は三十か。いろいろ考える歳だな」

 友人の言う通りだった。彼女はおれとの結婚を真剣に考えてくれていた。そのことに気付いていながら、おれは自信のなさから長い間曖昧な態度を取り続けてしまった。心変わりされるのも当然だった。本当に大事なものに気付いたときはもう遅かった。彼女の気持ちはすでに別の男のところへ移っていた。

 間奏が終わり、サビが始まっていた。リフレインの途中から歌い始める。この歌は、こんなにも悲しげな旋律なのに、詞は愛に溢れていた。

 曲が終わってマイクをテーブルに置いたあと、おれは『OH MY LITTLE GIRL』の印象を、正直に述べた。

「悲しい歌だと思ったけれど違った。女の子を愛しく思う気持ちがひしひしと伝わってくる。……傷口が開きそうだ」

 自虐的な感想を最後に付け加えたが、歌いきったことにおれは満足していた。横で腕組みをしてモニターを見ていた友人は言う。

「ここに歌われている少女は、薄幸そうな生い立ちを背負っているように思えてならないね。繊細で今にも壊れそうだ。ひりひりするような痛々しい愛が、この歌にはあるな」

 おれはその言葉に賛成した。孤独な者同士が愛を拠り所に寄り添っている、そんな情景が浮かんだからだ。友人は手つきだけが繊細なのではない。感性も繊細だった。

 友人が歌う番になり、おれはモニターに目を向けた。友人が選んだのは稲垣潤一の『夏のクラクション』だった。懐かしい曲だった。小さい頃によく耳にしていたが、失恋の歌とは思わずに当時は聴いていたかも知れない。女性の運転する車がカーブを曲がって見えなくなると、季節が終わり、二人の関係も終わる……そんな映画のワンシーンのような絵が鮮明に浮かんでくる歌詞だった。自分の夢と引き替えに、女性との別れを選んだ男。夢を果たせないまま追憶に沈む男の胸に、彼女が最後に鳴らしたクラクションの音が哀切に響く……涼やかな曲調の中に、深い悲しみが湛えられている名曲だ。

「紛れもなく、終わった恋の歌だろう?」

 間奏になり、友人がそう言う。おれは頷いた。

「今のおれに刺さりまくりの曲だ。歌詞と一緒で、おれは彼女に甘えていた。そして、悪いのも全部おれだ」

 友人が歌っている間、気付かれないように涙を拭いた。作詞の売野雅勇も、作曲の筒美京平も天才だと思った。モニターの何でもない映像に、別れた彼女の姿が二重写しになって浮かんだ気がした。雨に濡れて立ち去った日の姿を思い出し、おれの胸はまた少し疼いた。

 誰かがカラオケルームのドアをノックする。驚いて顔を向けると、ドアの細い窓から二つの顔が覗いていた。友人が呼んだメルちゃんと詩人の二人だった。

 メルちゃんは若い女性らしく、大きく肩の出ているデコルテ全開のブラウスにデニムのスカートという格好で現れた。詩人は、黒のセットアップに黒のハット、白く染めた髪に銀縁の丸眼鏡といういつもの年齢不詳のスタイルだった。

 室内が一瞬にして華やかになる。

 おれと友人、そして、メルちゃんも詩人も、同じカラオケサークルで知り合ったメンバーだった。年齢も職業もバラバラだが、皆ひとりでカラオケに通うくらい歌が好きな連中だった。こうして集まれば、ただ歌うだけでなく、歌詞をひとつひとつ吟味したり、テーマを決めて曲を選んだり、いろいろな刺激を共有して楽しみを分かち合える仲間だった。

「あらららら、もしかして、今日は八〇年代縛りなの?」

 そう言って、金髪ショートボブのメルちゃんは目を輝かせると、さっそくリモートコントローラーの履歴を開いて、おれたちが何を歌ったかをチェックした。

「いや、単なる偶然だ。今日のテーマは『悲しい歌』でお願いしたい。こいつの失恋を癒やすのが目的だから、協力してくれ」

 友人はおれの両肩に手を置いて、他の二人にそう説明した。すると、詩人がおれの顔を見て、やわらかな声で言った。

「わかりました。歌が終わったら皆で飲みに行きましょう」

 彼らしい優しい気遣いに、おれは笑顔で応えた。

「じゃあ、私からいくね。せっかくだから私も八〇年代にする。ここはやっぱり聖子ちゃんでしょう!」

 そう言って、八〇年代アイドルが大好きなメルちゃんが選曲したのは、松田聖子の『瞳はダイアモンド』だった。

「松本隆が初めて松田聖子に書いた失恋ソングですね。作詞家本人がそう語っていました」

 イントロの印象的なギター演奏のところで、詩人がさりげなく豆知識を披露した。作詞家松本隆が松田聖子に提供した作品は、アルバム曲も含めて数多あるが、それ以前に失恋を書いていなかったというのは、たしかに意外な話に思えた。

 歌の中では、彼氏に去られた女性が泣きながら空を見上げて、瞳に雨を受けていた。おれもそんな気持ちになって聴いていた。

 演奏が終わると、メルちゃんが当時のアイドル歌手のように、マイクを持って可愛らしくお辞儀をしてみせた。この子は若いのに、本当によく昔のアイドル文化を知っている。おれは感心しながら拍手を送った。

「硬質なダイアモンドと流体の雨、そして涙の出どころであり感情を映す窓にもなる瞳。それらが様々な比喩によって性質を交替しながら表現されていくという、技術的にも相当高度な歌詞ですが、特に読み解くのが難しい箇所が二つあるんですよ」と詩人が言う。詩人の話は、豆知識もさることながら、曲に対する理解やアプローチに役立つので、おれたちはいつもありがたく傾聴していた。

「最初の『映画色の街……』、そして、そのあとに出てくる『傘から飛び出したシグナル……』。このあたりは、今でも解釈が分かれる部分です」

「『映画色』とはどんな色だろう」おれはぽつりと呟いた。

「カラーかモノクロじゃないの?」とメルちゃん。

「そういうことじゃないと思うぞ。映画みたいに、過去の思い出をつなぎ合わせた回想シーンのことを表しているんじゃないのか?」と友人。

「いろいろな意見が出てくるところが、この詞の面白いところです」と詩人。

 たしかに詩人の言う通りかも知れない。言葉にたくさんの意味を持たせることができたら、その詞は成功だろう。『傘から飛び出したシグナル』に至っては、おれには手強すぎて理解が及ばないが、映像的な動きの中に、破局の匂いが感じられて、このフレーズはとても印象に残る。

 次は詩人が歌う番だった。

「失恋と松本隆さんと雨、ということで、私はこの歌を思い出しました」

 詩人が選曲したのは大滝詠一の『雨のウエンズデイ』だった。

「イエーイ! 八〇年代縛り!」
「『ア・ロング・バケーション』……名盤だ」
「意外とキーが高いんだよな、大滝詠一って」

 様々な反応を微笑で受け流し、詩人は原曲キーのまま、やわらかな声で微睡むように歌い始めた。

 おれはこのとき、偶然というものに驚いていた。ここに来る前にカーラジオから聞こえてきたのがこの歌だった。そして、この歌は、おれに彼女と別れたときのことを思い出させた。

 歌い終えた詩人に拍手をしながら、おれは涙ぐんだ。泣いているの? とメルちゃんに訊かれて、おれは素直にうん、と頷いた。

「松本隆が初めて書いた自伝的長編小説『微熱少年』には、主人公が恋人と海に訪れて別れ話をするシーンが出てきます。実はこのときのシチュエーションが、『雨のウエンズデイ』の歌詞とそっくりなんです。小説では海にワーゲンではなく、スバル360でやって来るという細かな違いはあるのですが……。このシーンの最後は、次の印象的な一文で締められています。〈菫色の雨の降る水曜日だった。〉……私はこの一行を読んだとき、全身に鳥肌が立ちました」

 詩人はマイクをテーブルに置いたあと、そう説明した。

「菫色の雨って、素敵な表現よね」
「また『色』が出てきたな」

 メルちゃんと友人が、詩人の方を見てそう言った。

「そうですね。松本隆は「雨」についてもいろいろな「色」で喩えていて、「モノトーン」や「蜜色の雨」と表現している歌もあります。ですが、やはり『雨のウェンズデイ』に出てくる「菫色」の雨は、飛び抜けて美しいと感じますね。どんな心象がその色に込められているのか、とても興味があります」

「おれは、その菫色の雨を見たよ」

 出し抜けにおれがそう言ったら、全員の目が向けられたのがわかった。おれはため息を飲み込んで、彼女と別れた日のことを話すことにした。

「先週、彼女を外に呼び出して、話し合ったんだ。実際に会って話してみると、やはり彼女の心変わりは決定的だと思った。だから潔く諦めることにした。もうおれのところへは戻ってこないと思ったよ、悲しいけれどね。どうしてそう思ったかというと、彼女がおれの前では一度も使ったことのない香水を付けていたからなんだ。普段なら、雰囲気が変わったことを喜ぶものなんだろうけど、おれには彼女が変わってしまったように思えた。そして、もうひとつ、彼女はこのとき薄手の白いシャツを着ていたんだが、……ブラが見えたんだよ。紫色のブラを着けているのが透けて見えた。おれ、初めて見たよ、彼女がそんな色の下着を着けているの」

 カラオケルームが、何だか少し変な空気になったのを感じて、おれは少し焦った。でも、言いかけたことは最後まで話そうと思った。

「雨がポツポツと落ちてきて、これ以上話し合うこともなくなっていたから、これが別れの潮時だと思った。それじゃあ、元気で、とお互いが最後の挨拶をして、おれは彼女の背中を見送った。駆け足で去っていく彼女のシャツが雨に濡れて、さっきよりもくっきりと下着の色が浮かび上がっていた。……菫色だった」

 そこまで話してから、おれはみんなの顔を見た。変な空気は相変わらずだった。おれは急に心配になって訊ねた。

「今のおれの話、聞いてたよね?」

 しかし、三人はお互いの顔を見回しては曖昧に頷き合ったり、気のない返事をしたりで、おれが予想していた反応をしてくれる人は、誰ひとりいなかった。

 詩人が、微笑しながら静かな声で言った。

「話としては、よく出来ていると思いました……」

 おれは慌てて反論した。

「いやいや、これは作り話じゃないから」

 今度は友人が口を出す。

「オチがね、ちょっと弱いかな」
「だからネタじゃないって!」

 食い気味で反論した。

「本当のことだとは思ってるよ、でも……香水のところからやり直す?」

 メルちゃんまで真顔で言ってくる。

「なんだよ、なんだよ、誰も真剣に聞いてくれないんだな。くっそ! おれはいじけるぞ」

 勢いでそう言って、おれは部屋の隅っこに行って小さく体育座りをした。よく考えたら、おれは上手ないじけ方を知らなかった。

 カラオケルームの壁を見つめながら、おれは本当の気持ちを吐き出した。

「おれが言いたかったのは、紫は紫でも、別れ話のときは青寄りの紫に見えることがあるってことなんだ。ブルーになるって言葉があるだろ? 憂鬱なときは暗く蒼く見えるときがあるんだよ。後悔しているとき、悲しいとき、落ち込んでいるとき、そんなときに見上げた雨には、きっと色が付いて見えるんだよ。おれ、すごくショックだったんだ。おれの前では一度も見せたことのない下着を彼女が着けているのを知って、本当にショックだった。単純かも知れないけど、たったそれだけのことで、他の男に気持ちが移ったと感じたんだよ。目の錯覚だろうさ、本当は色なんか付いていない、わかってるよ。それでも、愛し合ったことのある人と別れるときは、雨に色が付いて見えるときがあるんだ」

 ああ、おれは何を言っているのだろう。いい歳をしてみっともない。本当におれはみっともない。

「失恋には、悲しい歌が癒やしになるって、それ本当なの?」

 小さな声でメルちゃんが友人に訊ねていた。おれは耳だけでその会話を聞いていた。

「失恋でもっともよくないのは、自分は傷付いていない、全然ショックじゃない、と平気なふりをすることなんだ。本当の感情を抑圧するのが一番よくない。哀しい映画を観て涙を流し、悲しい歌を聴いて自分の本当の感情を認めてあげて、その気持ちに寄り添うことが大事なのさ。落ち込んで底まで行ったら、あとは上がるだけだろ? そうやって回復するのがもっとも早く立ち直れる方法なんだよ」

 どういうわけか、友人の言葉を聞いたら心が軽くなった。いつの間にか詩人がそばに来て、体育座りをして俯いているおれに、リモートコントローラーを差し出した。

「さあ、次の歌を入れて下さい」

 詩人がやわらかな声で言う。おれは、ありがとう、と礼を言って立ち上がった。ソファーに目を向けると、さっきと同じように、全員がおれを見つめていた。

「おっ、前よりも顔色が良くなったぞ」と友人。
「次は何を歌うか決まった?」とメルちゃん。

 おれは友人に「次も悲しい曲を入れないとだめか?」と訊いた。友人は「底まで落ちきったから、もういいだろ」と明るい顔で答えた。

 おれは、今の自分が歌いたいと思う曲を選んだ。モニターに『学園天国/小泉今日子』の曲名が表示された。

「イエーイ! 八〇年代!」
「復活ですね」
「このあとは時間までノンストップだな。みんなも続けて曲を入れておこうぜ」

 イントロが始まり、おれはここにいる仲間の顔を見渡した。みんながおれを見て楽しそうにしている。違う意味で泣きそうになった。歌はいいものだ。潰れそうだった胸を、最後は元通りにしてくれる。歌い出すタイミングがきた。おれは全力で声を張り上げた。

(了)


四百字詰原稿用紙約十八枚 (6,286字)


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〈今回登場した歌の参考動画〉

・尾崎豊『OH MY LITTLE GIRL』


・稲垣潤一『夏のクラクション』


・松田聖子『瞳はダイアモンド』


・大滝詠一『雨のウエンズデイ』


・小泉今日子『学園天国』

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〈今回参考にした図書・音楽リスト〉

『秘密の花園』松本隆 新潮文庫
『微熱少年』松本隆 新潮社
『マイダスの指』〈全三冊〉松本隆 思潮社

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『TRANSIT』稲垣潤一
『Snow Garden』松田聖子
『A LONG VACATION』大滝詠一

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