見出し画像

三島由紀夫『禁色』《砂に埋めた書架から》50冊目

 今日では「同性愛」という言葉は珍しいものではなくなった。「同性愛者」の存在も、一般に広く認知されている。

 心の中で自分が感じている性別と実際の体の特徴とが合致せず、その乖離に精神的苦痛を訴えていた患者が「性同一障害」と診断されて、国が認める性転換手術を受けたのは、つい最近の話ではなかったか。(

 もちろん、一般に認知されているとはいえ、日本では同性同士の結婚は許されてはいないはずだし、例えば公衆浴場や刑務所のような男女別に分けられる施設において発生する問題などは、これからも様々な形で噴出していくものと思われる。

 つまり「同性愛者」の存在は、社会の認知も、一般の認知も、まだまだ途上で、十分に深まってきているとは言えないのが現状のようだ。

 一方、「同性愛者」たちも自分たちの「愛」を貫き通そうとすると、自動的に大きな問題に直面することになる。言うまでもなく、同性同士では子供が作れないという現実である。

 有性生殖によって強い子孫を残すやり方で繁栄してきた人類にとって、雄と雌がつがうことは必須だ。ゆえに、「同性愛者」たちが少数派に属するのは、種の保存のためには免れない運命だと言わなければならない。

 文学は、そんな少数派の人たちに、これまでスポットライトを当ててきた。

 三島由紀夫が『禁色』を発表した昭和二十六年当時、この作品をめぐって賛否両論が巻き起こったという。男色家を表舞台に引っぱり出し、このような光を照射した小説は、今までになかったからだ。

 三島の設定は実に巧妙だ。檜俊輔という老作家が、女に復讐するその道具として女性に興味を持たない美貌の青年を利用する、というものである。

 豊穣な語彙を用い、絢爛たる美文を構築する三島の描写は、美青年、南悠一の魅力を生々しいほどに伝え、男色の気がない私でさえ、読んでいて思わずぞくりとしたほどだ。

 南悠一は普通の女性ととりあえず結婚するが、そこにおける夫婦の苦悩も、ちゃんと三島はすくい上げて書いている。

 私はこの小説を、面白く読んだ。この中にでてくる重要な登場人物のひとり、鏑木夫人を、最後は格好いいと思った。

 以前、女優の太地喜和子が何かのインタビューで、三島作品の『禁色』が好きだと言っていたのをどこかで読んだことがある。それが念頭にあったせいで、読んでいる最中、彼女の顔が鏑木夫人と重なった。自分が想像する限り、これほどぴったりなキャスティングは他に思い浮かばなかった。


書籍 『禁色』三島由紀夫 新潮文庫

画像1

◇◇◇◇

■追記■

 この書評(というよりは感想文)は、1999年10月に作成したものです。

 よく知らないのに知ったようなことを書くと、色々な方からお叱りを受けそうなので最初に断らせて頂きますが、1999年10月にこの文章を書いたときの自分は、「同性愛」に関して、少なくともこの感想文の冒頭に記した認識を持っていました。今、どういう認識であるか、どう考えているかをここで述べることは控えます。(……誰に向けて言っているのか自分でもよくわからない汗)

 文学を創作する者は、当たり前のことを当たり前に見ることができること以外に、それとは違った角度で対象に踏み込んで見ることを必要とします。そして、その角度や切り口が、新しかったり、意外なものだったりすると、他者から反応や評価を得ることができる性質を有しています。小説の新しさは、それを読む者にとっても新しい刺激です。

 三島由紀夫の代表作『仮面の告白』の第一章では、主人公の男性が、子供時代の回想の中で、女性よりも男性に心惹かれていたことを、印象的なエピソードの数々によって明かしています。すなわち、『禁色』は、三島文学が持っている大きな主題のひとつともいえるその「男色」の流れをくむ作品であり、世間におおっぴらにすることがはばかられた時代において、異色であったと同時にセンセーショナルな作品でした。

 私は今年に入って、三島由紀夫の初期の短編『煙草』を読む機会がありました。読んで初めて知ったのですが、この作品も「男色」を扱っていました。今でいう「BL」です。著者自選の短編集『真夏の死』(新潮文庫)には、続いて『春子』という作品が所収されています。こちらは女性の「同性愛」、すなわち「百合」です。文学者である三島の目に映る人間の「愛の形」は、最初からマイノリティにも向けられており、それが、三島以外の誰にも書けないあの才気煥発な文章によって読むことができるのは、日本語を解する者にとってどれだけ幸運だろうかと私は思います。

 さて、『金閣寺』も読めない、豊穣の海も『奔馬』の途中で止まっている私が、三島作品を語る言葉など、実のところひとつも持っていませんので、そろそろこの文章も終わりますが、この「追記」の文章に、三島の小説で紹介したいシーンがあったので、確認のため探したのですが、なぜか見つかりません。

 探していたのは、キャバレーかショーパブなどの余興が行われるステージ(多分)に男が登壇し、奇妙な芸を披露するシーンです。どんな芸かというと、観客の前で自らの性器を露出し、手は一切触れず、精神統一のみでオルガスムスにまで導き、射精に至る、という奇怪な特技です。

 『禁色』で読んだと記憶していましたが、見つけられませんでした。昔、夜九時台の「TVタックル」で、若い頃にその真似をしたことがある、というゲストが出ていました。その人は、精神の力だけではどうしても難しく、最後は息を「フー、フー」と吹きかけて、なんとか成功したそうです。

(うーん、なんの話だ)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?