夜明けの曲
短編小説
◇◇◇
1
老人がひとり、駅ビルの前に立っている。吐く息は白い。
ビルの谷間を縫ってきた風が、落下した銀杏の葉を駅前の広場に集めてはフィギュアスケートのようなスピンを演じさせている。だが、老人はそれにはいささかも目をくれず、ツイードの上着の下に臙脂色のベストをこざっぱりと着こなし、品の良いベージュ色のマフラーとチャコールグレーの帽子を身に着け、大理石を模したポーチの円柱に寄りかかりながら、一冊の本を手に持ち、さらに小脇に三冊の本を抱え、レンズの丸い眼鏡の奥にあるしょぼしょぼしたまなこを熱心に頁の上に注いでいた。よっぽど本が好きなのだろう。親しげに身をすり寄せてきた落ち葉たちが足下で騒いでも、老人はその声が聞こえないとでもいうように、本の世界にどっぷりと浸かったままだ。
美也子が駅の入り口に立っているその老人を目にしたのは、学校帰りに立ち寄った駅前のハンバーガーショップから友達四人で表に出たときだった。街は土曜日でいつもより人の往来が激しかった。けれども、老人のいるところだけが、まるで時間が止まったように、人の流れから隔離されて見えたのだ。通りを行き交う人々の陰に見え隠れしているのに、不思議とその存在感は失われず、むしろ、ますます強固になっていくようなのだ。
美也子は最初、自分の目の焦点が、なぜこの老人に合ってしまったのか理解できなかった。
美也子にとって老人とは、皺だらけで手足がかさかさしていて、体から厭な匂いを放つ、少しも綺麗なところのない生き物であり、視界に入れば自動的に意識の外に追いやる対象のひとつでしかなかった。それなのに、なぜ自分はこの老人から目を離さないでいるのだろう。美也子は心の中に湧いてきたこの問いに、すぐさまふたつの答えを当てはめた。ひとつは、老人が読んでいる書物に、自分は興味を持っているということだった。街頭でスマートフォンやタブレット端末に目を落としている人は当たり前のように見かけるが、たくさんの本を抱えてそれを貪り読んでいる老人に外で出くわすことは希有なことだ。自らも本好きの美也子は、同じ嗜好を持つ者として、その老人が何というタイトルのどんな内容の本を読んでいるのか、つい知りたくなってしまった、というわけだ。もうひとつは……。
どん、とそのとき美也子の肩に誰かがぶつかった。失礼、と詫びる男の声は聞こえたが、その姿はもう見えなくなっている。そのときになって、ようやく美也子は自分が歩道の真ん中に立ち尽くしていたことに気が付いたのだった。
「大丈夫? 美也子。痛くなかった?」
友達のエリに訊かれて、「平気、平気」と美也子は返事をする。そして、鞄からいつも携帯している除菌ペーパーを取り出して、ぶつけられた制服の肩口をさっと拭いた。
「寒いよう、早くカラオケに行こう」
せかすように言う友達の声に、美也子はうんと頷いた。誰の顔にも白い息が立ちのぼっていた。ちょうど向かいのビルに渡っていける青信号が点滅を始めたので、短いスカートの裾を翻しながら、美也子たちは一斉に駆け足で横断歩道を渡った。
美也子が考えたもうひとつの答え――。それは、あの老人が、老人であるにもかかわらず、とても清潔な印象を自分に与えた、というものだった。でも、それだけだった。ビルの四階にあるカラオケボックスに着き、可愛い振り付けが話題になっているヒット曲をモニターに呼び出して、回転するミラーボールと共にイントロが大音量で始まった頃には、体を動かしたくてうずうずしている美也子の頭の中に、そんな老人が存在したことすら綺麗さっぱりとなくなっていた。
2
その朝、老人は、曜子さんとの待ち合わせに間に合うよりもずっと早い時間に家を出て、神田の古本屋街に寄り道することを考えた。地下鉄を降り、長い階段をゆっくりと上って地上に出ると、通りはウインタースポーツを取り扱うファッショナブルな店舗が軒を連ね、ショッピングに興じるたくさんの若者たちで溢れていた。歩道を進んでいくと、騒がしい流行の音楽に加えて、商品を宣伝する若い女性の声が輪唱のように耳に飛び込んでくる。喧噪から逃れるように、ひっそりとした路地に身を寄せると、老人は、ようやく本来の自分を取り戻せる落ち着いた街の入り口に立つことができた。
古本屋街は、表通りのきらびやかな街とは対照的に、古色蒼然としている。流れている時間のスピードも違っているようだ。老人は顔馴染みの店主がいる店に入り、雑多に置かれている書物の棚を丹念に物色した。古書店の本棚は、さながら知の歴史を積み重ねた地層だった。膨大な量にのぼる古本の中から、目当ての一冊を探し出す作業は、どこか化石の発掘に似ていると老人は思った。『原始の霧/ブルックナーの森をゆく』『音楽と茸とジョン・ケージ』『チェリビダッケ回想』と、音楽に関係する本を三冊選んだ後、老人はしばらく店主と立ち話をした。そして、ふと、この後に控えている用向きのことを思い出し、このような本は置いていないかと店主に訊ねてみた。
「うーん、高校一年の女の子かあ、話についていければいいわけだよねえ、そんな本あるかなあ……」
頭の薄くなった店主はそう呟いて、後ろの棚を眺めやった。
「明日、何年か振りに孫に会うんだよ。ちっとも話が合わないのも、どうかと思ってね」
老人がそう言うと、店主はいつも座っている机の下から段ボール箱を引っ張り上げ、中から一冊の本を取り出した。『イマドキ女子のAtoZ』と題されたその本は、十代の若者の流行語と情報ガイドを合わせたような内容だった。去年出版された本だからまだ使えるはずだよ、と店主は言っていたが、たまたま開いたDの項目を見れば、「デートDV」「出会い系アプリ」「disる」といった理解不能な言葉が目に飛び込んでくる。
老人は幾分暗澹とした気持ちになりながら、それら四冊の本を紙袋に入れてもらい、店を後にした。
途中でスノーボードのケースを背負った若者とぶつかり、紙袋が破けてしまうというアクシデントに遭遇したものの、老人は約束どおり待ち合わせの駅に着いた。
曜子さんはまだ来ていなかった。破れた紙袋を捨て、しばらくポーチの円柱に寄りかかりながら本に目を落としていると、「おじいちゃん」と女性の声がした。かすかなフローラルの香りに顔を上げると、目の前にベージュ色のトレンチコートを着た曜子さんが、白い息を吐きながら立っていた。
「ご無沙汰しておりました」
老人は、かつて自分の息子の嫁であった女性を、眩しい思いで見つめた。あれから少し痩せたのではないか。綺麗な顔立ちに変わりはないが、頬に若干の翳が差している。老人は彼女の健康が少し心配になった。
曜子さんが七歳になったばかりの娘を連れて、嫁ぎ先の家を出たのは八年前のことだ。老人は今でもあの頃のことを思い出すとやりきれない思いで胸が苦しくなる。あの前の年、老人の一人息子であり、曜子さんの夫でもある鈴彦が突然亡くなってしまったからだ。空港のパーキングに止めた車の中での練炭自殺だった。遺書はなく、自殺の動機もわからなかった。老人の妻は一人息子を失ったショックで寝込むようになった。曜子さんも小学校に上がったばかりの娘の前では笑顔を作っていたが、それ以外はほとんど泣いていることを老人は知っていた。自殺は何も生み出さない。残された家族は虚脱と悲しみのどん底に突き落とされるだけで、それぞれが鈴彦を救えなかったことを自分のせいにして自分を責め、自分の魂を知らず知らずに自分で傷付けていた。そこへ追い打ちをかけるように、鈴彦の勤務先で多額の使途不明金が発覚し、横領した疑いをかけられていることが耳に入ってきた。老人は、会社が息子に責任を被せようとしているに違いないと思った。そんなことを息子の自殺の動機にされてたまるかと思った。世間に尾ひれの付いた話が広まったとき、家族全員が憤慨した。これは後になって老人は知ったことだが、曜子さんは息子が所持する銀行や証券会社の口座に不審な金の流れがないことを詳細に調べ、他にも疑惑を晴らすために思い付く限りの証拠と証言を集めると、会社に直接出向いて息子の名誉を回復するように訴えたという。最後まで息子のことを信じてくれた曜子さんに、老人は頭が上がらないほど感謝をしていた。しかし、世間の目は容易に変わるものではない。老人は妻と幾晩も話し合いを重ね、考えに考えたうえで決心をした。曜子さんはこのときまだ二十代だった。やり直しがきく年齢であることと孫の将来を考えれば、これ以外に方法はないように思えた。老人は息子の一周忌が終わったのを区切りに、曜子さんに籍を離れてもらうことを申し出たのだった。
近くの喫茶店に入り、コーヒーを口にしながら互いに近況を報告し合った。曜子さんが二年前に再婚したことは知っていた。新しく夫となった男性は孫にも優しく、勉強や習い事に関わることには少しも援助を惜しまず、自分の子のように可愛がってくれているという。
しばらくして、曜子さんは言いにくそうに話を切りだした。
「実は、娘が……明日、おじいちゃんと一緒には出掛けられないと急に言い出してしまって……」
予感していたことではあったが、その言葉の最後を、老人はうなだれながら聞いていた。
「あの、いいえ、娘は決しておじいちゃんのことを嫌がっているわけではないんです。……ただ、何年もお会いしていなかったので、きっと恥ずかしがっているんだと思うんです。だからおじいちゃん、そんなに……」
「ああ、いや、いいですよ、曜子さん。なるほど、そういうものかも知れません。急に会いたいと言い出した私の方こそ勝手過ぎたようです」
「おじいちゃん……」
「チェロを習っていると聞いていたものだから。一度、孫と一緒にコンサートに行ってみたかったんですよ」
老人は、カップを手のひらで包むように持った。半分ほど飲んだコーヒーは冷めるのも早いように思えた。しばらくして顔を上げると、そこで初めて曜子さんが泣いていることを老人は知った。
「どうしたんだい、曜子さん」
「ごめんなさい……。少し思い出しちゃったんです、あの頃のことを」
曜子さんは、無理に笑顔を作り、ふうっと息を吐き出した。
「……今でも私、鈴彦さんが亡くなった理由を考えるときがあるんです。絶対に本当のことなんてわかるはずないのに。どうして、メモの走り書きでもいいから教えてくれなかったのか。何だか私に、一生の宿題を残していったような気がするんです」
曜子さんの睫毛が濡れて、細い光を放った。老人は清潔なハンカチを彼女に差し出した。そんなことしかできなかった。昔のことで涙を流すなんてもったいないよ、と老人は声をかけたかったが、自らも嗚咽をこらえていただけに、言葉を発することができなかった。
二人で喫茶店の外に出た。頬をなでる風は冷たかった。最後に老人は「孫によろしくお伝えください」と言い、駅の改札で曜子さんと別れた。
3
美也子は電車の吊革には絶対につかまらなかった。公衆トイレのドアノブはティッシュを使って直接手で触れなかったし、エレベーターのボタンはキーホルダーや傘の柄を使って押した。カラオケに行って美也子がまずすることはリモコンとワイヤレスマイクの消毒だった。こういうとき、除菌ペーパーという代物は重宝した。使用前に気が済むまでそれで拭き取るのだ。
美也子は、こんな自分の性格を少し異常だと思うが、それは自分の感受性が人並み外れて鋭敏過ぎるからだと考えていた。布張りのソファーに、肉眼ではわかるはずのないダニが見えることがあるし、浴室のタイルにへばりついる黴の胞子の気配を一個からでも察知することができるのだった。
そして、美也子はよく手を洗う。こんなにも自分が綺麗好きなのは、母の影響を受けたからだと美也子は思う。母も潔癖な性格だった。まだ小さかった美也子を抱き上げたりあやしたりした後、母は必ず手を洗った。幼いながら美也子は、そういう母の行為を見て傷付いたのを憶えている。
年が明ければ早生まれの美也子は十六歳になる。
当然セックスにも興味はあったが、男の子に誘われてもそれに応じたことはなかった。仲間うちではエリだけが経験済みで、その方面の話題にも明るい。しかし、美也子は男の汗や皮脂の臭いに嫌悪を感じるし、黒々とした体毛に包まれた腕や脛にも我慢がならなかった。エリにそのことを伝えると、「汗の臭いもねえ、その男の子のことを好きになっちゃうと、汗の臭いじゃなくなっちゃうのよ」と言い、後は不気味な声で笑うだけだった。確かに、美也子にも好きな男の子にぎゅっと抱きしめられたいという欲望はある。だが、それを想像した途端、全身にゾーッと寒気が走るのもまた事実なのだった。
日曜日、美也子はエリと渋谷に来ていた。映画を観ようと誘ったのはエリだった。ジュード・ロウの新作ではなく、邦画のホラーにしようと決めたのもエリだった。けれども、館内が暗くなり、映画が始まってもエリはスマートフォンの操作をやめず、後ろに座っている客から、何度目かの舌打ちの後に座席の背もたれを蹴られた。エリは美也子に「ごめん」と耳打ちすると、席を立って出ていってしまった。ひとり残された美也子は、陰鬱なスクリーンと気味の悪い効果音に耐えられなくなり、後を追うように席を立った。
美也子が辺りを見回しながら映画館のロビーに出てみると、長椅子に足を組んで座っているエリの姿を見付けた。
「ちょっと、どういうこと?」
そう言って美也子が近付いていっても、エリは顔を上げずに、スマートフォンを熱心に操作している。
「ホラーが観たいって言ったのは、エリの方なんだよ」
美也子の非難を含んだ声にようやく気付いたのか、エリは両手を顔の前に合わせて、ごめーんと言った。
「中学のときの友達がさ、私に超やばい案件を流してよこすから、無視できなくなっちゃったんだよね」
「映画は? もう観ないんなら、チケット代の埋め合わせに、何か奢ってもらうからね」
美也子はぴしゃりと言ったつもりだった。自分勝手なところがあるエリに、美也子はいつも振り回されることが多かった。だから、たまにはこれくらい強く言ってもいい、と思ったのだ。
「わかった、わかった、奢ってあげる。てゆーか奢らせるから、だから美也子、ちょっと私に付き合って」
スマートフォンを顔の横でひらひらと振り、エリは飛び跳ねるように立ち上がった。
道玄坂を下りながら、美也子はエリの話を聞く。無料通信アプリでのやり取りも、一通り見せてもらった。早い話が、エリの中学のときの友達が男と会う約束をしたらしいのだが、行けなくなったので代わりに会ってきて、という用件らしい。エリが《超やばい案件》と言っていたのは、そういうことだった。
「それって、援交でしょう?」びっくりした美也子は、そう言ってエリの顔を見た。
「まあね。でも私からはこんなことやったりしないよ。彼氏だっているし」エリは、涼しい顔で言う。
「たださ、友達がときどきこういう《案件》を流してくるんだよね。いい小遣い稼ぎになるからって。人助けのつもりなんだよ」
美也子は、中学時代のエリのことは何も知らなかった。だから、彼女にそういう友達がいることを初めて知って、落胆と嫌悪の両方を感じたのだった。
「その男って、どんな人?」眉をひそめながら美也子は訊いた。
「友達がさ、正直に『十五歳』って答えたら、『ぜひ会ってくれませんか』って返信が来たんだって。とんだロリコンじじいよね」
「で、どうすることにしたの? まさか……」
「なんかねえ、孫がどうしたとかコンサートがどうしたとか、よく話がわからなかったみたいなんだけど、お金持ちで上品そうな感じがしたから、OKの返事をしちゃったみたい」
美也子は開いた口がふさがらなかった。そして、そんな約束をエリに押しつけてよこす、中学時代の友達だという女の子の、神経が理解できなかった。
「そういうわけだからさ、美也子、私に付き合って。二人で会えば平気だから」
「嘘でしょ? なんで引き受けたりしたの……」
「大丈夫だよー、超キモいおやじだったら、すっぽかしちゃえばいいんだからさあ」
男との待ち合わせは、午後五時に渋谷駅のモヤイ像の前だった。エリは美也子に、「食事もカラオケも全部向こうに奢らせて、ホテルに誘われそうになったら逃げちゃおうよ」とこれからの計画を話した。
「ホテル!? 今から会う男の人って、そういう人なの?」
「当たり前じゃない、出会い系に集まってくる男の目的はみんなそれだよ。知らないわけじゃないよね? あーそっか、美也子はまだオトコを知らないもんね。わかんないのも無理ないか」
そう言って、エリは唇の端をきゅっと上げて微笑んだ。その顔にエリの優越感が充分に透けて見えたので、美也子は不愉快になった。出会い系を利用する人たちが何を目的にしているかくらい知っている、知らないわけがない、それよりも、あなたは今一緒にいる友達を平気で危ないことに巻き込もうとしているんだよ、その自覚はある? 少しくらい男の子とセックスしたからって男を全部知った気にならないでよ、あー、もう本当にむかつくな、ばーかばーか。そう言って美也子はエリを罵ってやりたかった。だが、口にまでその言葉が上らなかったのは、美也子にとって、それはまだ一度も足を踏み入れたことがない領域であり、先に進んでいるエリよりも上位に立つには、その体験を有することが必須条件であり、それがない自分には罵る資格がないことを知っていたからだった。
五時になって、モヤイ像の周辺を遠巻きに眺めていたエリは、濃い灰色の帽子が目印だという待ち合わせの男を探し当てたとき、がっかりした声を出した。
「もうパスパスパス! 私パスする。だって、どう見たって七十は越えてるもん。あんなじいさんとカラオケに行ったって白けるだけだよ。口だって絶対臭いしさ。ねえ、美也子、すっぽかして帰っちゃおう」
「私、行くわ。あの人に会ってくる」
美也子はきっぱりと言った。えっ、と驚いているエリをひとりその場に残し、美也子はモヤイ像の前でぽつんと佇んでいる男のところへ歩いていった。美也子は一目見た瞬間に、待ち合わせの男が、昨日の学校帰りに駅前で見かけたあの老人であることがわかったのだ。服装も昨日とほぼ同じで、唯一違うのは、ジャケットの下に着ていたベストが、臙脂色からモスグリーンに変わっていたことくらいだった。
美也子は老人に声をかけ、ぎこちない挨拶を交わした後、しばらく話をした。そして、何度か頷いてから、老人を待たせたままにして、離れた場所にいるエリのところに駆け戻った。
「エリ、先に帰ってていいよ。私、あの人とコンサートに行く約束をしたから」
「うっそお、信じらんない。だって、年寄りは嫌いってさんざん言っていたのは美也子の方だよ。七十歳だろうが、八十歳だろうが、男は何をしでかすかわかんないんだよ!」
「その心配はないわ。じゃあね、エリ」
そう言って、美也子はエリにくるりと背中を向け、再び老人のところへ歩き出した。
4
渋谷駅のバスターミナルから、六本木方面へ行くバスに乗る。
街はすっかり暮色に包まれ、窓ガラスに映る自分の顔を、美也子はまるで他人の顔のように見つめていた。
隣のシートには老人が座っている。意気込んでこの老人の後に従いバスに乗ったはいいが、この先どう接したらいいものか美也子は正直言って途方に暮れていた。自分をこのような行動に走らせたのは、エリへの反発心からだということを美也子は知っている。つまらないことでエリと張り合ってしまったと今は後悔しているが、でもあのときは、男性経験のない女の子はみんなから遅れているのだ、とエリに言われたような気がして腹が立ったのだ。
しかし、それだけが理由だろうか。美也子はもちろん、この老人とホテルに行くつもりで付いてきたわけではない。あれほどまで忌み嫌っている年寄りと自分が一緒に寝るなんて、考えもしないことだ。しかし、昨日の第一印象から、自分はこの老人の品の良さと清潔な雰囲気に、波長が合うのを感じていた。美也子は今になってそのことを思い出していたのだ。
バスの中で、老人は美也子に、自分には八年も会っていない孫がいて、一緒にコンサートに行く約束を楽しみにしていたのだが断られてがっかりした、という話をした。でも、どうしても諦められなくて、ひょんなことから若い人と知り合える方法があることを知り、申し込んでみたのだという。老人は慣れないスマートフォンの操作に苦労したということを、苦笑混じりに話した。出会い系サイトについても、それが現在どんな使われ方をされているのか、その本当のところを、老人はまったく知らないようだった。
出来過ぎた話だ、と美也子はそれを聞いて思った。けれども、そんな老人の作り話を、美也子は信じてみてもいいと思った。今だけの付き合い、今だけの関係なのだから。この際、美也子は老人に合わせて、自分もいいところのお嬢さんを演じてみようと考えた。架空の自分をこしらえて、架空の夜を楽しんでみる。これから先、何があっても自分が傷付くことはない。だってそれは架空の誰かのことだから……。我ながらこれは素敵な思い付きだと、美也子は窓ガラスに映る自分に向かって静かにほくそ笑んだ。
赤坂のアークヒルズの前でバスを降り、屋外のエスカレーターで上に昇ると、広い中庭のような場所に着く。正面にコンサートホールのエントランスがあり、右手にはテレビ局の建物や飲食店、左手にはライトアップされた噴水があった。ホールの前は開場を待つ人たちで溢れていたが、まだ時間があるので、美也子は老人と噴水の前に腰掛けて待つことにした。
「おうちに連絡を入れなくて大丈夫ですか。何だったら私から、ご両親に事情を説明したいのだが……」
「それには及びませんわ。そうされると、却ってパパとママに心配をかけることになります」
美也子は、わざと上品そうな言葉を選んでそう答えた。老人は恐縮したように頭を下げた。
「そうですか……よそのお嬢さんを勝手にお誘いするなんて、私はどうかしているのかも知れない」
「気になさらないでください」
「まだ、お名前を伺っていませんでしたね」
「ええ」美也子は老人の胸元に目を落とし、とっさに嘘の名を名乗った。「みどり、といいます」
途端に、老人の顔が晴れやかになった。
「驚いた、私の孫と同じ名前だ」
「まあ」美也子は思わず手を口に当てていた。
開場時間になり、ホールに足を踏み入れた。美也子にとって、初めてのクラシックコンサートだった。最前列のシートに老人と並んで腰を掛け、美也子はまだ誰もいないステージに、コントラバスやハープなど大型の楽器が照明を浴びて、しんとした静寂の中に置かれているのを目にした。清浄で神聖な空間に、美也子はうっとりとした興奮を覚えた。
「最初は、ラヴェルの『〈ダフニスとクロエ〉組曲第二番』。天国のように美しい曲だよ。みどりさんが気に入ってくれるといいのだが」
「美しいものなら、私、好きになれますわ」
楽団員と合唱団の大勢の人たちがステージに上がり、続いて指揮者が現れた。拍手の波が凪いで、静かに「夜明け」の曲が始まった。空に赤みが差す情景を、オーケストラの音が少しずつ組み立てていく。刷毛で絵の具を重ねていくように、形が徐々に見えてくる。
美也子が音楽に心を奪われるまで、さして時間はかからなかった。自分がどこにいるのかも忘れるほど、すっかり音楽に夢中になっていた。いくつも重なり合った弦の音が次第に分厚くなり、うねり始める。束ねられた音の奔流は、やがて圧倒的な量で美也子に押し寄せてきた。音のうねりに巻き込まれたかと思うと、あっという間に下半身をすくわれて、美也子はまるで宙吊りにされた気分になった。思わずスカートの裾を押さえたほど、真に迫った演奏だった。音の強弱、音の流動が、そのまま美也子を左右に大きく振り動かしていく。すごい、すごい、と美也子は思った。音楽に体を揺さぶられるとはこういうことなのか。顔が上気して、小さくため息が漏れた。そして、美也子には思いもよらなかった感情が、胸の奥に生まれたのだった。
ホールの中はとても綺麗で、何もかもが清潔だった。ここには、汚らしいものは何もなかった。美也子はそっと、隣に座る老人を見た。きっとこの老人はコンサートが終わった後、自分を誠実に駅まで送るかして別れるだろう。やましいことなど初めから考えていないのを、美也子はもはや確信していた。「みどり」と名乗ったあの時点から、自分は老人の孫に、それこそ仮初めだが完璧な関係になったのだ。そこには、下心など少しも差し挟まれる余地はない。だからだろう、自分の胸の奥に芽生えた思いがけない感情を、美也子は幾度も言葉にして心の中で反芻していたかった。この老人に自分の体を委ねてもいいと、その瞬間に思ったのだ。
私を抱きたいんでしょう? 抱きたいから私を誘ったんでしょう? ねえ、一緒に寝てもいいよ。寝ようよ。欲しいんでしょう、抱いてよ……。
美也子は音楽のうねりのさなかで、酔ったように繰り返し繰り返し心の中で呟いていた。
〈了〉
四百字詰原稿用紙約二十八枚(10175字)
■参考動画
モーリス・ラベル『〈ダフニスとクロエ〉組曲第二番』