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冬の海

掌編小説

◇◇◇


「一人で冬の海に行ってきた」と妻が言う。

 それは夕飯を食べる前のことで、食卓には揚げたてのとんかつが用意されていた。妻は対面式のキッチンの向こうにいて、冷蔵庫の扉を開けているところだった。

 先に食卓に着いていた佳之は、「物好きだな」と何でもない風に笑ってみせたが、「風が冷たかった」と呟いた妻の声が食卓に届くと、その抑揚の失われた行き場のない響きに、不穏な気配を感じずにはいられなかった。

 妻の表情を確認したかったが、ちょうど開けた冷蔵庫の扉に遮られて、見ることができなかった。

 この町から、海はさほど遠くない。佳之たちの住まいからは車で二十分も走れば日本海が見えてくる。夏には海水浴で賑わうビーチもある。

 一人で冬の海に行ってきた。

 けれども妻がその一言を発しただけで、味噌汁から立ちのぼる湯気がふっと止まった気がして、何かあったのかと問いたくなる言葉も凍りついて、時が一瞬だけ停止したような、おかしな感覚に陥るのはどういうわけだろう。妻は冷蔵庫から取り出した一本のたくわんを、調理台に載せてサクサクと切っている。俯いた顔から普段の表情が消えているように感じる。

 佳之は、灰色の空とそれよりも暗い色をした海を思い浮かべながら、手元にあった急須に茶葉を入れ、ポットのお湯を注ぐために立ち上がった。お湯を注いでいる間も、妻がよく着ている黒のオーバーコートと臙脂色のマフラーを思い浮かべ、普段なら花の香りがする白い頬に幾筋かの黒髪が張り付く様を思い浮かべ、風にいいように裾をはためかせたまま、たった一人で海を見つめて佇む妻の姿をその寂寞とした背景に当て嵌めてみれば、これは只事ではないように思えてきて、何かが起こり始めているのではないかと胸底がざわめいてくる。

 一人で冬の海に行ってきた。

 妻の一言は、食卓の上のものをすべて薙ぎ払うかのように日常を奪ってしまった。本当は何一つ変化を与えてはいないのに、譬えようもない渦とうねりの破壊力で何かを変えてしまっていた。一人で冬の海を見てきたと伝えておいて、特に意味がないとはどうしても思えない。何かそこにあるから妻は言ったのだ。仕事の悩みか、実家の問題か、あるいは佳之自身に何か原因があるのか。こんなとき、夫として妻にどんな言葉をかければいいのだろう。佳之は急いで考えを巡らせたが、おかしな不安と得体の知れない焦慮のせいで、言葉が思うように浮かんでこなかった。妻は油で汚れたガスレンジの周りを拭いている。「先に食べてていいよ」と言葉で促されても、箸を手にする気にはなれなかった。

 キッチンに立つ妻の挙動を黙って見つめているうちに、その背後で防波堤にぶつかった荒ぶる波が、どーんと白い飛沫を高く上げる冬の海が見えた気がして、佳之ははっと息を飲んだ。荒涼とした灰色の背景に白く突き上げた波頭が、反転して牙のように真っ逆さまに降りてくる。そんな情景が、たった今目の前で展開されたような気がしたのだ。こんなのは自分が拵えた幻想に決まっている、と思いながらも、佳之はその生々しい想像の残余が胸の内にわだかまるのを抑えることができなかった。

 妻は蛇口の水を細くして手を洗ったあと、たくわんとキャベツの浅漬けを盛りつけた器を手に食卓へやって来て、普段通りに向かい側の席に着いた。

「いただきます」
「いただきます」

 妻にかける言葉を考えていたのにも関わらず、佳之の口から出たのはいつもと変わらない言葉だった。とんかつを箸でつまみ、擂った白胡麻と合わせたソースに付けて、二人で互い違いにサクサクと音を立て合った。こんな静かな夕食は異常に思えた。

 佳之は、妻の口元を眺めた。唇が油でてかり、揚げ物の衣の小さな欠片がくっついていた。結婚して十年、同棲期間を含めれば、妻とは十五年も一緒に過ごしている。子供はできなかったが、夫婦仲がさめたと意識したことはない。だが、ときどき佳之は、目の前にいる妻のことがわからなくなるときがあった。理解し合えたつもりでいても、夫婦が他人であることに変わりはないのだ。佳之は、咀嚼のためによく動いている妻の口元に救いを見出した。

「ここ、付いてる」

 佳之は自分の唇のそばを指差して、衣の欠片がくっついていることを妻に教えた。妻はすぐに気付いて指先で拭い取った。

「どうりで、さっきから私のことを見ているなあ、と思ったのよね」
「おれの熱い視線に気付いたか」

 佳之の冗談に、妻は笑い出した。普段通りの妻だと佳之は思った。

「冬の海に一人で何をしに行ったの?」

 佳之はこの機に乗じてそう訊ねた。何も疚しいことはないはずだから、訊いても問題はないはずだ。妻の様子が普段通りのものなら、拍子抜けするような答えを聞いて安心したい。そのあとで、冬の海を持ち出すのはズルくないかと笑いながら言ってみようか。佳之はそう考え、返答を求めて妻の顔を見つめた。

「ただ海を見てきただけ。それだけだから心配しないで」

 妻は表情を消してそう答えた。

◇◇

 それから間もなく、妻は別居を望むようになった。その半年後に、佳之は離婚届に判を押した。

 会社帰りに同期の酢永と久しぶりに酒場に立ち寄った佳之は、離婚にいたった理由を遠慮なく訊いてくる酢永に、妻に変化を感じたあの夕食の出来事を語って聞かせた。大学のときから一緒の酢永は、佳之にとって気兼ねなく本心を明かせる数少ない友人の一人だった。

「一人で冬の海か。深刻だね」

 徳利を傾けながら、酢永はそう言った。優しい口調だが、言葉の奥に含むものを佳之は感じた。

「それで、おまえの奥さんが離婚を望んだ本当の理由は何だった?」

 酢永がお猪口に目を落としたまま訊ねた。

「わからない。妻は最後まで理由を言ってくれなかった。でも、今になって思うと……」

 佳之は再びあの夕食の場面を思い起こした。

「あのあと、やっぱり妻に直接言ってしまったんだよ。冬の海を持ち出すのはズルくないかって。あれがよくなかったんだと思う。あんなこと、言わなければよかった」

 酢永は黙っていた。お猪口を手にしたまま、何か考え込んでいる。酢永は昔から勘が鋭い男だった。佳之は酢永に何か言って欲しかった。

「言わなくても同じだろうな」としばらく経ってから酢永は口を開いた。「言わなければよかった、というのはおまえがそう信じたいだけだ。考えてもみろ、女が一人で冬の海だぞ。寒空の下でする決意の深さを、おまえはわかっているのか?」

 佳之は項垂れたまま頷いた。

「わかっているなら、今度は本当のことをおれに話してみろ。おれが全部聞いてやるから」

 佳之は両手で顔を覆った。胸につかえたものが一気に取れたようだった。

(了)


四百字詰原稿用紙約八枚(2,678字)


※この作品は五年前につくった詩で同名タイトルの『冬の海』を、小説のスタイルに改めるという一連の試みを志向したものです。(作者)




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