ロバート・A・ハインライン『夏への扉』《砂に埋めた書架から》34冊目
平面に高さを加えた三次元の世界は、言うまでもなく我々の住むこの空間のことであるが、それに“時間”を一次元加えた世界がいわゆる“四次元世界”だという。
(……そういう風に「四次元」のことを説明する読み物が、昔は多くあった)
しかし、この“時間”を加える、ということが私にはどうもわからなかった。
友人にその説明を求めたところ、彼は100メートル走のトラックを引き合いに出して、こう教えてくれた。
「人間の一生を、100メートル走に例えるとする。スタートラインが誕生した瞬間だ。20メートル地点で成人を迎え、半分の50メートルを超えたら中高年から高齢へ。そして、ゴールラインで人は死に至るわけだ。つまり、100メートルという距離は、この場合、時間の流れを表している。これが三次元の世界から見た人間の一生だ。しかし、そんな人間の一生の全部が、四次元では、スタートラインに一挙にずらりと並んでいる」
友人は専門家ではないので、その説明をどこから仕入れてきたかは私にはわからないが、ただその話を聞いたとき、生まれてから死ぬまでの間を引き連れた人間たちが存在する四次元世界の、あまりの空間の広さを想像して、めまいを覚えたことがある。
時間というものの概念を、私はあまりよく理解できていないのかも知れない。絶対だと思っていた時間も、光速で移動する空間の中ではそれがゆっくりと流れることを、アインシュタインは相対性理論の中で確か証明していたはずだ。(ただ、それを丁寧に教えてもらったところで、果たして自分に理解できるか自信はない)
SF小説は、これまでにもたくさん「時間」というテーマを扱ってきた。中でもハインラインの『夏への扉』を好きだと言うファンは多い。
まずタイトルが良い。それに、冒頭で語られる主人公とその飼い猫ピートによる「夏への扉」をめぐるエピソードがとてもチャーミングだ。
ボストンバッグにピートをそっと隠し、酒場(バア)でスコッチとジンジャー・エールでこっそりと酌み交わすシーン。そして酒場の窓から「冷凍睡眠保険」という看板広告を主人公が見つけるところ……。
文章がとても気持ちよく、ここまでを私は何度繰り返し読んだかわからない。
ハインラインの語りのうまさもさることながら、訳者の福島正実氏の功績はとても大きいと思う。
友情、恋、裏切り。人間たちのドラマは、読んでいて憤慨してしまうほどだけれど、一方で、猫のピートの愛らしさは、並々ならぬものがある。
この小説を、優れた猫小説だとみる向きもあるようだが、もちろん、SF小説としても一級の面白さを保証できる作品だ。
科学の発達に伴い、SFの世界も進歩してきた昨今、『夏への扉』は、すでに古典の部類に入ってしまっている。けれども、私個人のこの作品への愛着は、決して色褪せることはないようだ。
『夏への扉』ロバート・A・ハインライン 福島正実/訳 ハヤカワ文庫
◇◇◇◇
■追記■
この書評(というよりは感想文)は、1999年10月に作成したものです。
読んだことはなくてもタイトルだけは知っているという人は多いと思います。原題は『THE DOOR INTO SUMMER』。詩的で美しく、すごくうまく付けられたタイトルです。この小説が知られている理由はそれだけではなく、好きなSF小説のアンケートをとると、今でも必ず上位に入り、多くの読者に長い間語り継がれてきた名作でもあるからでしょう。
冷凍睡眠(コールドスリープ)とタイムマシンを上手に取り入れ、過去と未来を行ったり来たりする『夏への扉』のストーリーは、「時間旅行」を扱ったSF作品ならではの面白さがあります。のちに作られた大ヒット映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)や邦画『サマータイムマシン・ブルース』(2005)などに詰め込まれたドタバタ感(タイムトリップしてきた人物が隠密行動をするときの)は、この名作と同様の血統を脈々と受け継いでいるのを感じます。
この小説で重要な役割を持つのが「護民官ペトロニウス」。すなわち、主人公ダン・デイヴィスの飼い猫、ピートです。ダンとピートは主従の関係ではなく、信頼関係で結ばれた同士、相棒と呼んだ方がしっくりくるような関係です。猫に人の言葉をしゃべらせたら、それはファンタジー小説になりますが、『夏への扉』のピートはリアルな猫として登場し、決して人語をしゃべることはありません。しかし、ダンと会話をしているかのように「ナーオウ」と鳴いたり、「ニャアウ!」と力強く賛意を表明したり、「アルルオウルル?」「ニャゴォ、ルルウ、ニャン?」と、実際に猫を飼ったことがある人なら心当たりのある複雑な鳴き方を披露してくれます。
猫の自由気ままで素っ気ない態度や細かい仕草の描写を見れば、ハインラインは実に正確に猫を観察していることが分かります。誇張のない自然な書き方が、猫好きに受けているのではないでしょうか。できることなら、本編にもっとピートが活躍する場面が欲しかったと思いました。なぜなら、私も猫好きだからです。
福島正実さんの翻訳で多くのファンをつかんできた『夏への扉』ですが、2009年に小尾芙佐さんによる新訳が発売されました。語句も新しいのが採用され、若い人にも読みやすくなっているとのことです。二つを読み比べるのも面白いかも知れません。
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