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夏目漱石『三四郎』《砂に埋めた書架から》17冊目

 冒頭の汽車のシーンはとても印象深い。

 東京の大学に進学するために、熊本から上京する主人公小川三四郎は、そこで、様々な乗客と乗り合わせる。
 田舎から都会に出ることは、人にまみれることだ、ということを暗示する、秀逸な書き出しだ。中でも、途中の名古屋で、成り行きから宿を共にすることになった女との一夜は、この小説の方向を決定づける非常に忘れがたいエピソードだ。

 偶然乗り合わせた見ず知らずの女性と、同じ部屋で寝泊まりすることになった三四郎は、風呂に入っているとき「ちいと流しましょうか」という女の声を断ったり、宿の者に二つ並べられてしまった布団にタオルでわざと敷居を作り、「疳性(かんしょう)で人の布団に寝るのが嫌だから」と蚤除けの工夫をこしらえたりする。三四郎は、最後までその敷居を越えることはない。
 翌朝、女は駅で別れるとき、そんな三四郎に衝撃的なひと言を言うのである。

 私は最初にこの場面を読んだとき、自分に向かってその台詞を言われたような気がしたのだった。恋愛に不馴れで臆病なところを、言い当てられたような気がしたのである。
 この小説は、その女のひと言で、青春小説としての幕を開けるのだ。

 同時に、三四郎の恋愛観は、この時点で読者に見破られる。
 案の定、後に知り合うことになる里見美禰子に三四郎の心中は翻弄される。
 恋愛に臆病だったり、不馴れな者は、おおかた鈍感である。そんな三四郎の姿が、自分の過去と重なり、読後は胸が痛くなる。


書籍 『三四郎』夏目漱石 新潮文庫

◇◇◇◇

■追記■

 この書評(というよりは感想文)は、2002年3月に作成したものです。

 いつにも増して中身に触れることなくあっさりと終わる、スカスカな内容の感想文ですみません。

 三四郎が列車の中で知り合った女性と同じ部屋に泊まり、翌朝駅で別れるシーンの印象が強烈で、私はそこからまた冒頭に戻って一から読み直す、というようなことを何度か繰り返しました。そのため、なかなか先に進まなかった思い出があります。
 汽車の場面が一章で、二章から三四郎の大学生活が始まるわけですが、この先は正直あまり憶えていません。今でもどうにか記憶にあるのは「迷える子(ストレイ・シープ)」くらいで、自分でも情けなくなります。

  情けないことは他にもあり、私はその昔、『三四郎』のタイトルだけを見て、柔道の『姿三四郎』の原作だと誤解していました。漱石の『坊っちゃん』に「山嵐」という数学教師が登場しますが、「姿三四郎」の得意技も“山嵐”という名の投げ技だったはずで、こういうことが漱石と姿三四郎を結びつけてしまう原因になった(今思い付きました)と言い訳をさせて下さい。

 ネタみたいになったので、最後にまた余談を。

 作家の奥泉光いとうせいこうの二人が演じる「文芸漫談」という10年以上続いているトークライブがあります。
 2015年に奥泉光の生まれ故郷でその「文芸漫談」が開催されたことがありました。場所が私の住んでいる市の隣町でもあるので、喜び勇んで観覧に参加しました。そのときの題材が夏目漱石の『門』でした。言うまでもなく『門』は、『三四郎』『それから』とともに三部作と呼ばれているうちのひとつです。
 お二人のトークも楽しかったのですが、(このときの内容は「すばる」に収録され、電子書籍でも読めるようです)ショーの最後に恒例となっている奥泉光氏によるフルートの生演奏があり、これが本当に素晴らしくて心に残っています。
 地方の田舎でも、このようなメジャーな方々による文芸企画が楽しめることがあるので、世の中捨てたものではないと思いました。


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