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皮のない葡萄

短編小説

◇◇◇


 黒のチェスターコートの下は裸なのだから、身支度に時間はかからない。襟元は素肌が露出するのでマフラーだけは巻いている。下は膝下まで引き上げられるロングホーズと黒革のブーツのみ。ロングホーズは、タイトなスキニーパンツを穿いているように見せかけるためだ。自分に許した着衣はこれだけで、コートの前を広げれば残りはすべて生まれたままの姿だ。気を付けていることがあるとすれば、町へ出掛ける直前に入浴して肌を磨き上げ、清潔を心掛けるくらいだろうか。万が一騒ぎが起きて、大勢の人に見られても、せめて不快感を与えないようにはしておきたい。貧しくて服が買えないホームレスではなく、自ら望んで今夜は服を着ていないだけだからだ。

 クリスマスの夜なのに、駅の地下道は思っていたよりも人の往来がなく、ひっそりとしていた。自分の靴音が耳に響いて、心なしか早足になる。長い通路の先に地上へと出られる階段が見えたとき、コートの裾から入り込んだ冷気に性器をまさぐられて、思わず笑みがこぼれた。

 地上に出ると、並木通りは美しい電飾の洪水だった。二百メートルにわたって植えられた欅の一本一本に光彩を放つLED電球が巻き付けられ、枝を這い伝う点描は、下から風に吹き上げられたドレスのギャザーのように夜空を飾っていた。中央を貫くプロムナードはそぞろ歩く見物客で溢れており、それを見て地下道が閑散としていた理由が飲み込めた。

 交差点前の人溜まりに近付き、信号が変わって動き出した群衆の中に身を滑り込ませる。停止線で待機している車列から放たれたヘッドライトの明かりを横顔に浴びながら、背筋を伸ばして悠々と横断歩道を渡る。不自然には見えないはずだ。だが想像の中では上に羽織っているコートの実在を解除し、引き締まった白い裸身を曝け出すイメージで闊歩している。レッドカーペットを歩くムービースターの如く、自分は今、拡散する光線の中で注目を浴びていると思い込むのだ。この遊びは、法に触れることなく公衆の前で裸になるスリルを味わえる。全裸を悦びとする自意識を最優先に可愛がり慈しむのは、一部の洗練された紳士ならではの嗜みだ。

 待ち合わせをしているファッションビルは、この欅並木を進んだ終端にある。SNSで同じ趣味の愛好者同士で交流しているうちに、先月ひとりの女性と仲良しになった。こちらが四十代後半のバツイチ男性で、理学療法士として病院に勤務していることは正直に伝えてある。向こうもアラフォーの独身女性で、ネイルサロンを経営しているということだった。お互いのパーソナルについて知っているのはそれくらいだったが、メッセージの交換をしているうちに感じのいい人だと思うようになり、今夜初めて対面することになったのだ。自分と同様、彼女も果たして何も着けずに現れるかはわからない。しかし、そのような不確定な要素が、初対面の瞬間を思う今の自分の心を弾ませているのは間違いなかった。

 約束の時間に余裕があったので、見物客で賑わう欅並木のプロムナードを歩く。わざと人混みの中に身を投じて、コート一枚しか着ていない心許なさを肌で感じながら、煌びやかなイルミネーションの灯火に浴するのも風雅な趣味に思えた。携帯の端末を掲げて写真を撮る人たちが多い中、大口径のレンズを装着した一眼レフを構えている若い女性のカメラマンがいた。ボブヘアーの頭に猫耳のニット帽をかぶり、一脚でカメラを安定させて人物込みのスナップを撮っていた。どうせなら、彼女のような本格的な機材で自分の姿をこの夜景ごと切り取られたいものだ。そう思ったらいてもたってもいられず、彼女がレンズを向けている先を予測してさりげなく画角に入り込み、直立の恰好で天をふり仰いだり、冷たくなった手に息を吹きかけて暖めたり、電飾の美しさに見惚れて感に堪えないといった表情で口元を抑えたり、というポーズをいくつか取っていた。わざとらしいと思われたらすべてが台無しになる。カメラマンの女性を一瞥したい気持ちを何とかこらえてその場を後にした。それでいい。今夜あのカメラで撮影された最高の一枚が自分の写真であることを想像しただけで幸せな気分になる。猫耳がキュートなあの女性カメラマンの心象にも、イルミネーションに飾られた自分のシルエットが、いつまでも揺曳して欲しいものだ。

 自分は自己愛が人一倍強いのだろう。全裸で街に繰り出したときは特にそう思う。コートの下で無防備な姿の自分は、この世でもっとも脆弱な生き物であり、庇護されるべき対象だと感じる。その一方で、日々のトレーニングで引き締めたこの美しい裸体は、異性に限らずありとあらゆる人々を惹き寄せる眩しさを湛えており、そのためコートの内側に引き留めて魅力を抑制しなければならない、とも思うのだ。

 別れた妻からは、かつてこんな風に言われたことがある。「あなたが一番好きなのは私じゃなくて自分でしょう」。それに対してこう言い返したものだ。

「そもそも自分自身を愛せない人が、誰かを愛せるわけないじゃないか」

 夫婦の間でそのあとも不毛な言葉の応酬が続いた。だが利口な妻は、とっくに発言の中にある偽善を見抜いていたようだ。

「あなたはね、誰かを愛そうなんて思ってないの。もともと自分以外を愛せない人なの」

 いつでも最後に真実を突いてくるのは妻だったように思う。

 もういい歳をした大人なので、無闇に自分の欲望を外に漏らさないようには気を付けているつもりだ。だが、生まれたままの姿で自由に出歩きたい衝動は抑えられるものではない。そんなとき、同志たちの集うSNSを見つけたのだ。年齢も職業もばらばら、皆、独自の全裸スタイルを極めていて、男女の比率も同等のようだった。自宅だけで全裸生活を完結する者もいれば、人目のつかない山中や海浜など、自然の場で一糸まとわぬ姿になって開放的な時間を過ごす者、そして、自分と同じように人々で賑わう街中に出て、バレないように精神的な裸を楽しむ者、とそのエンジョイの仕方も多様なのだった。

 実際、外で同じスタイルの愛好者らしき人と遭遇することがある。確かめることはできないが、皆、一様に脹ら脛が隠れるくらいのロングコートを身にまとい、背筋をぴんと伸ばして堂々と歩いている。男女ともにプロポーションが抜群で、身に着けるアイテムも上等なものと決まっている。愛好者たちには同様のそれらしい匂いがあり、そこには共通のダンディズム、そして崇高な美意識が滲み出ているのだ。言ってみれば自分のような全裸の紳士淑女たちは、皮のない葡萄なのである。コートという外皮を剥ぎ取れば、珠のような潤い滴る中味が現れる。それが本来の姿であって、実際は傷付きやすく潰れやすく、ついでに乾きやすくもあり繊細なのだ。よく誤解されるのだが、自分たちはいわゆる「露出狂」と一緒くたにはされたくない。参加しているSNSでもたびたび話題に上るが、我々がもっとも忌み嫌っているのは、あの春先や夏場に出没する「露出狂」たちなのだ。あいつらは少女やご婦人の前で自らの下半身をはだけて醜怪なものを晒し、歪んだ承認欲求を満たしているに過ぎない。そこには崇高な理念も芸術的な身体性の意識もありはしないのだ。あんな傍迷惑な連中と混同されてしまうのは屈辱以外の何ものでもない。わずかなスタイルの相似を理由に痴漢どもと同類のように見做されることが、自分たちは心底耐え難いのだ。

 電飾の欅並木が終わり、プロムナードの終端も見えてきた。ここまでたくさんの見物客とすれ違ったが、誰にも気付かれることはなかった。体は冷えているが、ある種の高揚感に包まれている。

 右手に七階建てのファッションビルが見えてきた。茜さん、というハンドルネームの女性とは、そこの一階に併設されているカフェで落ち合う約束だ。

 初めて訪れたビルだったが、カフェはすぐに見つかった。入り口の前に緑色のベンチがあり、そこに一人の女性が姿勢よく座っているのが目に入った。カシミヤの光沢のあるライトグレーのロングコートを羽織り、黒いスエードのブーツに収まったすらりと長い脚は、きちんと揃えられて斜めに倒されている。首には胸元を隠すように上品な柄のスカーフが巻いてあった。

(……完璧だパーフェクト!)

 思わず心の中で声を上げていた。言うまでもなく、この人が“茜さん”だろう。同じ趣味を持つ匂いがしている。コートの裾からほんの少しだけ覗いているのは黒のストッキングだが、ほぼ間違いなくガーターベルトで留められていると想像した。であればその下は……。不意に異様な興奮で全身が火照り始めた。ベンチに近付いていくと、女性がにっこりと笑顔になって立ち上がった。同じ匂いがする同志であることに彼女も気付いたのだろうか。

 自分の方から声をかけた。

「失礼ですが、茜さん、ですか?」
「そうです。では、あなたがピオーネさん?」

 リアルな場で自分のハンドルネームを耳にするのは、少し気恥ずかしさがあった。

 二人で照れ笑いのようなものを浮かべ、改めて挨拶を交わした。SNSではすでに色々な話題でおしゃべりをしていたので、打ち解けるのもあっという間だった。

「ピオーネさんは、私が想像していた通りの素敵な方ですね」

 そう言って、茜さんは明るい茶色の髪をかき上げながら、頬を紅色に輝かせた。実に笑顔の素敵な女性だった。

「ぼくもすぐに茜さんだと気付きましたよ。遠くからだとベンチに花が咲いているようでした」
「うふふ、リアルでもお上手なんですね」

 本や映画の話、恋愛や結婚の話、人生や仕事の話など、これまで茜さんとはメッセージのやり取りを通じて多くを語り合ったが、当然のように二人に共通する特殊な趣味の話もしていた。全裸の上にアウターだけを重ねて外に出掛ける行為には、精神的な充足の他に、言いづらいが性的な興奮が含まれていることは自明だった。自分たちに変態性があることを認めたうえで、全裸行為というものを哲学的にも俗物的にも掘り下げて語り合うのに最適な会話のスタイルは、猥談だというのが二人の辿り着いた結論だった。

「この間、ピオーネさんから教えて頂いたお相撲さんの廻しのお話が頭から離れなくて」

 茜さんは色白の顔を、薔薇のようなピンクに染めて恥ずかしそうに頭を振った。

 お相撲さんの廻しの話というのは、二人で猥談をしているときに取り上げた話題のひとつだった。力士が廻しを締めたとき、その廻しの中に収まっている男性自身は、上向きか下向きか、という問いから始まった話である。茜さんはしばらく考えたがわからなかったようで、相撲経験のある友人から聞いた正解を、そのあと教えたのだ。友人が言うには、上向きのポジションにしてから廻しを締めるそうで、下向きだとまるっきり力が入らないのだという。

「私、そのお話を聞いてから、お相撲さんの廻しを見るたびに、上向きになっているところを想像するようになってしまいましたの」
「何だか、申し訳ありません」
「放水口を上向きにして、なんてピオーネさんがおっしゃるから、私、ますます想像力が逞しくなってしまって」

 茜さんは、年が明けて初場所が始まったら今までのように相撲を観ることができるか心配だと語ったが、その表情は言葉とは裏腹に実に楽しそうだった。

 自分もさっきから心が浮き立つのを感じていた。対面してまだ間もないというのに、もうそんな下ネタを、カフェの前にあるベンチのところで我々は話しているのである。茜さんとは会う前から相性がいいと感じていたが、これほどまでぴったりな印象を抱くとは自分でも思っていなかった。立ち話も何なのでカフェに入りましょうかと誘ったところ、茜さんは「それよりもお腹が空きませんか」と食事の提案をしてくれたのだった。

「このビルの地下に、美味しい中華のお店があるんです」

 中華と聞いたら急にお腹が空いてきた。茜さんが言うには、そのお店はコックも給仕スタッフも全員女性で、猫耳の帽子がトレードマークなのだという。

 二人でエレベーターホールに向かった。フロアを歩いているときも、地下へ降りるエレベーターに乗り込んでいるときも、会話の合間に茜さんの上等なコートに目をやったり、透け感のある黒いストッキングに包まれたほっそりとした脚を盗み見たりした。品位を疑われないようにこれでも自制しているつもりだが、すぐ隣にいる女性が自分と同じ特殊な性癖の持ち主であることを考えると、胸の高鳴りを抑えられなかった。

 地下一階にはテナントの飲食店がいくつか入っていた。

「あれっ、もしかして」

 通路を左回りに進んでいたとき、茜さんが急に不安そうな声を出した。立ち止まった先には、中華料理店らしい色遣いでモダンな外観の店舗があった。ただ、店内に明かりはなく、入り口の前には準備中の立て札が出ていた。

「ごめんなさい、今日はお店がお休みなのかも……」
「そうみたいですね」

 緑色をした額縁のような看板だけが、間接照明に照らされて明るかった。金色の毛筆書体で「猫帽飯店」と記されてあったが、「帽」の字だけが草書体になっていて判読しづらく、ともすれば省略して「ねこ飯店はんてん」と呼びそうになる。

 しばらく二人で準備中の立て札を見つめていた。茜さんが向き直り、何かを言いかけようとしたとき、自分の肩越しに誰かを見つけたのか突然にこやかな表情に変わった。つられて自分も後ろを振り向く。すると、そこにいたのは雲台にカメラを載せた一脚を、大事そうに胸に抱えた若い女性だった。ボブカットの頭に猫耳のニット帽をかぶっているのを見て、さきほど欅並木で見掛けたあのカメラマンの女の子だとわかった。

「茜ちゃん、どうしたの? ひょっとして、うちに食べに来てくれたの?」

 カメラマンの女の子が茜さんに気付いて驚いた顔になっている。

「ごめん、お休みだと知らなくて」

 二人が仲良くおしゃべりを始めたのを見て、前からの知り合いなのだと思った。

 女性たちが知己の間柄で会話が盛り上がっているとき、連れの男はその間だけ空気のような存在になる。自分はその空気になるのが昔から得意だった。かつて妻と出掛けたときも、たびたびこのような場面に遭遇したものだ。元妻は知り合いがたくさんいる人だった。

 目の前にいる二人の会話を耳にして、いくつか推測できたことがあった。猫耳の帽子をかぶっているこの女性は、どうやら茜さんが経営しているネイルサロンの常連客のようだった。写真の方は趣味で撮っているらしいが、コンクールで入賞した経歴もあるようだ。このあと、茜さんは直接自分にこの女性を紹介してくれたのだった。

「ピオーネさん、この方は『猫帽飯店』の料理長をしている美々さん。お若いのにとても腕のいい料理人なんですよ。帽子も可愛らしいでしょう」

 料理長だと知らされて驚いた。美々さんは帽子に付いている猫耳を触って、笑顔になっている。笑うと目が波のような形になるのが可愛らしい。

「うちはスタッフが女の子ばかりだからさあ、オーナーが気を利かせて今年はクリスマスを休業にしちゃったのよね」

 美々さんは明るく人懐っこい話し方をする気さくな方だった。彼女は手にカメラを持ち替えながら「さっき、欅通りのイルミネーションを歩いていましたよね?」と目を見て自分に話しかけてきた。一瞬ドキッとしたが、顔を覚えていてくれたことに内心では心が躍る思いだった。

「そのとき何枚かスナップを撮らせてもらったんですけど、とても出来が良かったので見てもらえますか」

 彼女に撮られていることは何となく気付いていたが、さすがに、わざと画角に入り込みました、と本当のことを話すわけにはいかない。

 美々さんはカメラの液晶モニターに画像を映し出して見せてくれた。茜さんも一緒に覗き込んだ。そこには、玉ボケの美しいイルミネーションに囲まれた自分の姿が、想像していた以上にドラマチックに写っていた。

「綺麗な写真ね。素敵」

 茜さんが真っ先に感嘆の声を上げた。自分も感激を素直に言葉にして美々さんに伝えた。

「素晴らしいです。感動しました」

 美々さんは、この写真を表に出してもいいかと自分に許可を求めてきた。コンクールに出す組写真のひとつにしたいとのことだった。喜んで承諾した。もしもコンクールに出品することになれば、このときの自分が大勢の人の目に触れることになるだろう。ここに写った男が着ているコートの下は本当は素っ裸なのだぞ、と思った。誰にも気付かれてはいないが、この男は夥しい電球の光を浴びながら実は生まれたままの姿でいるのだぞ、と思った。美しく撮られた写真の奥に秘められた実相を幻視しているうちに、自分はこれまでに感じたことのない興奮を覚えたのだった。

「茜ちゃん、今からこちらの紳士とご飯を食べる予定なら、最上階にあるうちのオーナーのお店にしない? イタリアンでも大丈夫でしょう」

 美々さんは、私が頼めば席は用意できるからと言い、すぐに電話を入れてあっという間に手筈を整えてくれた。

 自分には十分過ぎるクリスマスだった。とても気の合う茜さんという女性と対面することができたし、自己愛を満足させる素敵な写真を幸運にも撮ってもらうことができた。さらにこのあとは、美々さんの申し出に甘えて茜さんとイタリアンで食事の時間を持つこともできそうだった。運命が新しく動き始めるとは、こういうことなのではないだろうか。

 元妻が言っていたように、これまでの自分は他人に愛情を示すことに関心がなかったかも知れない。けれども、自分以外を愛せなかった自分が、この先、誰かを好きになることがあるとすれば、それは自分と同じように自己愛を大切にしている人のような気がするのだ。その相手は、今夜、対面が適った茜さんかも知れない。きっと二人は、世に言う当たり前の愛し方はできないだろう。だが、同じ愛好者だからこそわかり合えることは多いと思う。それに、実を言うと、自分自身でも変化の兆しを感じているのだ。何しろ、自分の引き締まった自慢の体を早く茜さんの前で披露したいという自己愛的な欲望よりも、今はたまらなく、茜さんが着ているコートをつるりと剥いて、珠のように潤い滴る全裸を見たいという願望が強いのだ。こんなことを思ったのは今日が初めてだった。まさかとは思うが、これが世に言う当たり前の恋、なのだろうか。

 美々さんに案内されて、最上階にあるイタリアレストランに着いた。我々の到着を待っていたかのように、入り口には制服を着た係員が立っていた。格式の高いレストランのようだった。

「お待ちしておりました」

 前を進んでいた茜さんに、カウンターにいた別の係員が近付いてきて、「コートをお預かりいたします」と言った。

 コート?

 咄嗟にまずいと感じた。恥をかかせてはならないと思い、制止しようと身を乗り出したが、茜さんはするりとコートを脱いで、クローク係に渡したのだった。

 自分の口から声にならない声が漏れた。

 カシミヤのロングコートの中から現れたのは、プルオーバーのニットとツイードのタイトスカートを着用した茜さんの体だった。

 混乱がひどくて頭の整理がつかなかった。自分が今、どんな顔をしているのかもわからない。ひとつだけ確かなのは、茜さんの穿いているストッキングが、ガーターベルトで留められているかどうかはまだ誰にもわからないということだけだ。ああ自分は何を言っているのだろう。

 クローク係がにこやかに近付いてきた。

「コートをお預かりいたします」

 ここで判断を間違うと自分は大切なものを失うような気がした。何かを言わなければならないが、口の中がからからに渇いている。時間稼ぎのつもりで茜さんの方を見ると、頬を染めた綺麗な笑顔でこちらを見つめている。後ろを振り返ると、入り口の向こうに我々を見送っていた美々さんの、満足そうに頷いている顔が見える。観客は揃っている。つまり、そういうことか。

「ありがとう」

 掠れた声でお礼を言い、悠然とコートを脱いでクローク係に渡した。

(了)


四百字詰原稿用紙約二十二枚(8,040字)




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