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日記:4/13(意識の可燃性について)
今日読んだ小説に、こんな言葉があった。「火に感情があったらどうだろうか?」
小説を燃やしたら、火は「お、ドストエフスキー。難しいの読んでるね」と思うだろうか?
木材を燃やしたら、火は「ヒノキだね。ヒノキは香りがいいんだよね」と思うだろうか?
エロ本を燃やしたら、火は「お、いいおっぱいだね。Fくらいありそうだ」と思うだろうか?
それはそれで愉快だが、残念ながら火に感情はない。火にとって全ての可燃物は自らを維持する燃料でしかない。紙、木、プラスチック、そして動物。全部同じだ。
僕らはただの可燃物だ。頭ではそう分かっていても、それを本当の意味で信じるのは難しい。僕らには他の可燃物と違って、意識があるからだ。ふつう僕らの身体と意識は区別されたものとして考えられる。
質問:意識は可燃物だろうか?
科学的に言えば、意識はそもそもモノではなく現象である。脳内の神経細胞によって生み出される電気信号によって意識が創発する。しかし現象や概念も可燃物である。家が燃えた時、家自体だけでなく「そこに家がある」という事実自体も消える。一万円札が燃えた時、一万円という経済的価値は焼失する。そこに残るのは「家があった」「一万円があった」という外部の記憶だけだ。
しかし、過去の記憶でさえも意識という現象の一端である。そこでもう一つの質問を同時に考えよう。
質問:何も知覚できないとき、そこには何かがあるだろうか?
意識が可燃物であった場合、人が死ぬ時に身体とともに意識もなくなる。それは世界の観測者がひとついなくなることを意味する。つまり、世界中の観測者が火葬された時、あらゆる事象は知覚されなくなる。そこには何かがあると言えるのだろうか?
一方で意識が焼失しない場合、世界は未来永劫的に観測されることになる。そこには常に何かがあり続ける。無数の居場所を失った意識たちとともに。
どうやら意識の可燃性は世界の存在そのものに関わる問題のようだ。
頭が痛くなってきたのでここでやめる。