日記:4/14(こんなに孤独な夜でも、隣室では誰かがちゃんと生きている)
夜は不安だ。
夜は僕を不安にさせる。暗闇、静寂、孤独......。それらはより物理的である。何と比べてかというと、日中の光、喧騒、交流よりも、である。何年か前に夜の散歩をしている時に気づいたのだが、明るい空間には空間性がある。つまり、奥行きや広がりがある。一方で暗闇はそれらを持たない。暗闇は常に身体に纏わりつくように存在し、それはあたかもどろりとした流体の中を歩いているようである。
華やかな昼の喧騒が終わり、夜の帳が下りる。暗闇が手足に吸い付き、静寂が耳を塞ぎ、孤独が心を満たす。そんな時刻が僕は何よりも恐ろしくて堪らない。人々はめいめいの部屋に帰ってゆき、割り当てられたベッド(ないしは布団)で眠りに滑り込む。
僕は家に帰るのを避けている。なるべく遅い時刻まで繁華街のマクドナルドで作業をして、夜の部屋の孤独を最小化しようとつとめているのだ。しかし最近では24時間営業というのはなくなりつつある概念であり、贔屓のマックも例に漏れず24時で閉まる。
渋々帰路に着く。マツキヨの巨大な看板が霧に覆われて霞んで見える。僕には夜が朝や昼と同じ世界だとは思えない。きっと夜だけ世界は変わる。朝昼は太陽に監督され、夜は月に監督される。月の趣味は僕と合わない。
部屋に着く。今晩はうまく眠れるだろうか、というルーティン化した感情でいっぱいになる。それを誤魔化すようにマツキヨで買ったストゼロを流し込む。シャワーと夕食をさっと済ませ、適当なバラエティをパソコンで見て、酔いが覚める前にベッドに潜り込む。この酔いが覚めたらゲームオーバーである。不安から身を守るため、僕はアルコールがないと眠れない。そのこと自体がゲームオーバーな気もするが。
律儀に布団の上下左右を整えて体を滑り込ませ、電気を消したら世界は消える。観測者がいない世界にはなにも存在し得ない。観測者が観測をやめた時、観測者の存在でさえも確かなものでなくなる。そんな不安定な世界で、僕は思考を止め、眠る努力をする。
駄目だ。やっぱり眠れない。そう思ったのは昨晩のこと。もう時刻は日を跨ぐ頃だ。もういっそ眠るのを諦めて電気をつけてしまおうか、そう思った。
隣室から物音がした。
隣室から物音がした、ただそれだけのことだった。ただしそれは、僕にいくらかの安心と救済をもたらした。孤独に思える一人部屋でも、隣室では知らない誰かが普通に生活している。アパートの中で生きていることを忘れていた。僕のアパートはざっと15部屋くらいあるから、僕の他にも10人くらいはそこに住んでいるわけだ。こんな当たり前のことに僕は救われた。夜の孤独と静寂に少しの救済が与えられた気がした。そういえば、帰ってくる時に隣の部屋の電気がついているのが見えたっけ。なんだか単純な人間のようだが、すべてが少しだけ大丈夫になったように思えた。
誰かが今日も生きている、それだけで救われる人がいる。誰か、というのは愛する特定の誰かかもしれないし、顔も名前も知らない赤の他人かもしれない。だけど、人間は、少なくとも僕は、孤独に生きられるようにプログラムされていない。幸い世界には80億の人間が生活している。今夜からはそんなたくさんの人間のことを思って眠りにつこうと思う。
今晩も、上手く眠れますように。