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「底なしの絶望」


「底なしの絶望」


 個人の魂が底なしの絶望を味わって自滅せずに生きられるか? と。

 かかる問い自体が「それは実際にその状況に為らなければ分からぬ」との返答が当然と思われる。

 では、その底なしの絶望から希望や光を見出した魂も存在する、と言えばどうであろうか。

「そんなことは信じ難い、仮にそのような人物が居たとしてもその人物の思い込み、主観的体験にすぎぬであろう」と、殆どの人々は思うであろう。

 人々の懐疑は尤もである。大体底なしという概念自体が疑わしく感じられるからである。底なしの基準など何処にあり、誰が規定するのか? と。

 又、絶望自体も個々人の主観であり、さらに言えば希望や絶望という概念自体が我々人間が作り上げた単なる記号にすぎぬ、と。

 我々人間があらゆる対象を区別する為に言葉という記号を対象に与えた、可視、不可視の対象全てに、と。

この観点は唯物論的観点に依拠した考察である。此処に於いては常に「死」がゴールになっている。この観点から生じる心理学や哲学的考察は自然科学的明証性を必要とする。

そしてこの観点からの考察は我々の魂に一切の希望を抱かす事は出来ぬ。

死ねば終わりという考察から導き出されるのは刹那的、虚無的言動である。

動物界に依拠する、或いは等しい足場では我々人間の抱く理想など幻想妄想の類でしかないのである。夢を夢見る幼き無知なる魂の所有者と看做される。

「酔生夢死」とは疲弊した人物から吐き出された言葉の洒落にすぎぬ。又、深読みは意味をなさぬ。

人生は夢であり、夢を夢見る人物も是また夢の中で夢見る愚者であり、それを悟った者のみが真の覚者であると。故にこの世に於いてはただ一切をただ観ずるのみである、と。ただ在るがままに在る、それに全てを委ね任せる事こそが生きると言う事、真の生き方であると。

本来の生き方を問うこともなく何物にも囚われず淡々と、悠々と生きることが覚者の生き方、人間の生き方である。かくいう人物の魂は方向性も生じずただの物、そこいらの石ころと何ら変わることがない。ただ彼らは言うであろう。

「我々が真理を知ろうと如何に足掻き考えても無駄である。何故なら結局は一切は生成死滅する、全ては無常なるものである。かくも簡単な真理に果ては至る。それを真に知るまでに至るものもあれば至らぬ者もいる。故に生ある内に楽しむも良し、苦しむも良し、嫌でも全ては滅する事である」と。

 このような魂、意識状態で留まる存在は「底なしの絶望」を体験し得ないし、漆黒の闇の状態に耐えられぬであろう。

 真の自己認識は「底なしの絶望」の渦中に於いて光明を見出す。

 これは個人の魂が震撼しつつ魂の裡に於いて内的実体験を伴い、初めて知る事柄である。


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