「言葉」というもの
「言葉」というもの
彼のパスカルが 言ったように「大人物にとっても、小人にとっても、起こる事件は同じ、不快さも同じ、 情念も同じである。だが、一方は車輪のふちにおり、他方は中心近くにいる。だから、 同じように動かされても、動き方が少ない。」
「虚栄心というものは人間の心の中に深く錨をおろしているので、兵士、従卒、料理人、人足にいたるまで、それぞれにうぬぼれも持ち、人からもてはやされたいと願うほどで ある。哲学者までが、自分を礼賛してくれる者を得たいと願う。虚栄心に反対の論を立 てる者も、論じ方がすぐれているという名誉を得たいと思っている。またそれを読む者 の方は、読んだという名誉を得たいと思っている。今、こんなことを書いているわたし も、たぶん同じ願いを抱いているのだろう。そして、おそらく、これを読んでくださっ ているかたがたも…:。」(パンセ、一八○、田辺保訳)
芸術表現に限らず表現された「対象」は他者に見られる時は常に一対一の関係となる。
特に「言葉、言語表現」の場合はその度合いが強い。
ある事柄、価値観や世界観に至っては読者は自分自身に言われている様に感じてしまう。言語表現、此処に厄介な問題が潜んでいる。
直に相対して話す場合は左程問題は無い。相手に分かるような言い直しが可能だからである。
しかし、活字になった場合は読み手の解釈によって如何様にも解釈される。
私はよく「断定」した書き方、物言いをすると言われる。
所謂「です、ます調」的に表現した方が相手も聴く耳を持つであろうと。
確かに一見柔和で人当たりの良い言い方、書き方をした方が読み手、相手も受け容れやすいと思う。
人物と直に対面して話す場合であれば当然の事であろう。
然し、物言いがどのようなものであれ内容が変わらぬとすれば言い切る事に問題など無いと思う。
自分がはっきりと言いきる事は、その根拠も説明可能だからである。
通常の言葉による表現は殆どと言ってよい程、何かから得た情報的知識にすぎない。
自分自身が血肉化した言葉であれば威力があるというにすぎない。
誰彼はこう言った、或いは書いてあった等の借り物の情報知の継ぎ接ぎでしかない。
日常生活においては難しく考えなくとも肉体を維持する生活は出来る。
しかし、人生における意味や生存の問いは当人自身でしかと考える必要がある。
自分と似たような考え方、或いは共感出来るような著作に書かれたものを引用し、部分的に用いていたら決して自分自身の養分とはならない。
と、このように書けば又、読み手は「お前は全てを分かったかのように断定するのか」と。
このように言葉が活字化されると頗る厄介な問題が生じる。
人の数だけ物事に対して価値観、見方、考え方があって何故悪いのか? といった類の異論である。
個々人の考え方や解釈、方法はそれこそ個々人の能力や意識状態によって違うのは当然である。
誰でも自分自身の体験、経験は大事である。他者につべこべ言われる筋合いはない、と。
日常生活で用いられる便利な言葉「仰る通り、様々な考えがありますから、人はそれなりに、ご説ごもっとも等々」
要は自分自身の信じるものを徹底的に考え、信じ続けて生きれば何も問題は無い。
他者の意見や考えに囚われる事なく自分自身の考え、信念に即して確実に噛み砕き、自分の足で歩めばいい事である。
何事も時至れば自ずと分かるであろうから。
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