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フリーランスデザイナーがワンオペ介護をした話(その1)

 2017年9月。それは、いつか、なんとなくと思いながらも突然の事だった。

 自宅から電車と徒歩で40分の場所にあるデザインの個人事務所から帰ってくると、同居していた義母(72歳)が言うには、風呂の付け方がわからない、と言い出したのだ。いつも気丈で頭の回転の速い義母であり、毎日付けている風呂だけに、「いよいよ痴呆かもしれない・・」と恐怖を感じていると、翌日はテレビがひっくり返っていると言い出してと大騒ぎ。さらに翌日には仕事から帰ったら水が出しっぱなし、さらに翌日には、義母から早く仕事から帰ってきてくれと携帯に電話があって、帰ってくると家に誰もいないと大泣きされる始末。流石にこうなってくるとただ事ではなく、火の元の不安もあり、今まで経験したことがない事態になっている恐怖がよぎる。

 真っ先に頭をよぎったのは、「今後 事務所に通えるのだろうか、仕事は継続できるのだろうか、そもそも明日はどうしよう」という事だった。

 当時、15年上の主人が2月に口腔癌宣告をされていて、8月から手術の為に入院中だった。ステージⅡの状態で、毎日、仕事場と病院と自宅の往復の日々だった。癌と知らされる前から主人は体が弱くて10年前から入退院を繰り返していただけに、民間の保険は入れず、義母が元気で居てくれる事だけが支えだった。足音からガラガラと崩れ落ちて行くような不安を感じた。急遽 近くに住んでいる義兄弟夫婦に連絡をとり、義母をいつも通っているクリニックに連れて行くと、心不全を起こしている、という事で急遽大きな病院で入院となった。結果、病院で言われたのは、肺の周りに大きな腫瘍があり、検査するのも生死に関わるリスクがあり、このままでは 余命半年、という事だった。

 それから、義母の病院、事務所、主人の病院、自宅を往復する生活となった。かといって 仕事を辞めるわけにはいかないので、外注に振れるものは極力外注に変えていくことにした。収入不安が常に頭をよぎるため、主人の身体障害年金申請をする事に。(6月頃に申請した)当時、主人はくも膜下出血による影響で、歩くことはままならず車椅子。障害年金申請はかなり困難を極めるものだった。カルテを書いてくれる病院まで、主人をタクシーで連れて移動しなければならない。また、年金事務所は17時すぎに閉まってしまい、相談するにしても 毎回年金事務所までいかなければならない。年金事務所は毎回1時間以上は待たされる状況で電話もなかなか繋がらない。生活が苦しくて年金申請をするのに仕事の時間をどれだけ削らないといけないのか複雑な心境だった。病院・年金事務所・役所の往復を数回くりかえして やっと半年後、申請が通った。

 そして、2017年9月末に義母はあっけなく亡くなってしまった。その時、主人は口腔癌手術のあとの放射線治療中であった。

 悲しみに暮れる間も無く、私は 義母と主人とで同居していた賃貸のマンションを引っ越さなければならなかった。当時、事務所を借りていたため、このままでは2カ所の家賃が私にかかってきてしまう。 それは物理的に無理なため、事務所と住居をひとつにして、いずれ病院から退院して、家に帰ってくるであろう主人を看ながら仕事が出来る家が必要であった。

 これからが本当のワンオペ介護の準備となっていきます。

今振り返ってみて、できるだけ感情的に当時を振り返るのではなく、同じような境遇の人や一人で苦しんでいる人の何らかヒントになれば、と思って思い出しながら書き起こして行こうと思います。


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