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【連載小説】Words #19

 この物語はフィクションです。
 作中の人物・団体・学校・事件、及び各種名称、方言などあらゆるものは、創作であり、実在のものとは一切関係がありません。  
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 僕の記憶力なんて曖昧で、それが緊張したり興奮したりする状況下にあるときに余計信頼性に欠けるものであることは、何度か言ったように思う。
 だから、僕はその試験のことをあまり憶えていない。難しかった。そういう印象が、いまも残っている。
 でも、考えに考えて、正答に向かう試行錯誤ができないほどでもなかった。僕は大体の解答欄を埋めたはずだし、そうでなければ、数日後のその日職員室に呼ばれて、おめでとう、なんて言われることもなかったろうから。
 嬉しいより先に、変な感じだった。大方の解答欄を埋めたのは間違いないけれど、何故埋められたかについて、僕は説明できそうもなかった。試験が終わった瞬間は、僕はほぼ不合格だと落胆していたのだ。
 でも、その落胆も、絶望という暗くて深い穴ではなかった。何故なら、その試験日当日の段階で、あからさまにそこに落ちた友人がひとりいたからだった。
 経堂は、試験日の晩、僕に電話をよこした。
「ごめん」
「いや、しかたないよ、体調崩したんなら」
「俺が誘っておいて、それで、受けられないなんて、本当にごめん」
「いや、だからさ、それはしかたないよ」
 電話の向こうで、鼻声が響く。それが風邪をこじらせてしまったせいなのか、それとも悔し涙なのか、わからない。でも、声は、感情的に、震えていた。
「俺、行きたかった」
「うん」
「倫生に、入るために、この三年を生きてきたんだ。勉強したんだ」
「うん」
「おまえと一緒に、行けるって、嬉しかったんだ」
「うん」
「悔しい」
「うん」
「悔しいよ」
「あ……でもさ、僕もたぶんダメだったような気がする」
「そ、そんなこと言うなよ」
「だけどさ……」
「だから、そんなこと言うなよ」
「……うん」
「必ず受かって、それで、俺の代わりに、俺の分も」
「……うん」
「頼む……」
「うん……」
「頼む」
「うん、受かってたら、必ず……まあ、今はわからないけど」
「大丈夫だよ、きっと受かる」
「だと良いけど」
「大丈夫、俺が、認めたヤツなんだから、お前は」
 僕は、その友人にどんな返答をしていいかわからなくて、その時はただ彼が電話を切ってくれるまで、その涙声を聞き続けた。
 そして、彼の予言通り、僕は倫生に合格した。一度は、素直に、子供らしく喜んだけれど、でも、すぐに複雑に心は騒いだ。
 そして、家に帰るとそんな複雑な想いなど、踏みにじるひとがいた。
「ふうん、そう」
 それが第一声。
「まあ、当たり前よね」
 それが二言目。
「こんなところでつまづいてられないわよ。受かって当然。ほだされちゃったけど、倫生みたいなレベルの低いところなんてほんとは受けさせたくなかったの」
 それが全て。
「おめでとう、よくやった」のひと言もない。
 あのひとの中で、僕がどれだけの「天才」だったのかしらないが、僕は自分のその結果を当然などとは到底思えなかった。背伸びをして、手助けしてもらって、努力して、必死で、なんとか、ようやっと、合格したのだ。でも、そのひとはこんなことを言う。
「まあ、その倫生程度に落ちるようじゃ、あんなこと言いながらあの子もたいしたことなかったわね」
 カチン、と来る。でも、だからといって怒りにまかせてコトバを返して、このひとが改心するなどということもない。僕は、ただ穏やかに、事実のみを言う。
「経堂は、体調崩して、試験を受けられなかったんだ。受けたら、きっと受かってた」
「あら、そ? でも、どんな事情があっても、受からなかった、入れなかったってのは事実でしょ? それが、実力でしょ」
「ははは」
 僕は、笑った。人間は、他にどうしようもないとき、笑うしかない。
 このひとはわかってない。もし、経堂が万全の体調で、きちんと当然のように合格していたなら、その代わりに定員に入れず落ちていたのは僕だったかもしれないのだ。
 そういう、実感。そして、その実感は、そう間違えてもいなかったことは、後になってわかるのだけれど。
 僕は、あとは黙って部屋に戻った。
 嬉しいと思う。やはり。
 でも、その嬉しさは、どこか後ろめたかった。もっと相応しい人間が落ちて、劣った自分がそこにいく。
 どこか虚しくもあった。僕は、倫生に決めた最大の理由を、失っていたから。
 そこに最高のトモダチはいない。
 そして、悔しかった。僕は、結局、母の想定の範囲を、抜け出すことができなかったから。
 自分の願いは失ったのに、母の希望だけを、叶えてしまったような気がしたから。
 ベッドに投げ出した身体が、どこか感覚が遠くて、でも、僕はその晩久しぶりに後悔しなくても済む睡眠に、どっぷりと沈むことができた。



 話が多少前後する。僕と真沢は、絶交状態にあった。いや、例の「仮面絶交」じゃない。本当の意味で、没交渉状態にあった。
 それは、私立高校の受験日も差し迫ってきたある日曜日、いつもの「独り言」デートのときのできごとによる。
 幾度そうしたか忘れてしまったけれど、その頃にもなると、独り言を呟き合うのにすら話題がなくなりつつあり、同時に、人目を忍んで会うことのよろこびも薄れつつあって、お互い、ただなんとなく冬の公園か何かのベンチで、寒さと気まずさに震えているくらいしかすることがなくなっていた。
 それでも、僕には真沢に会いつづける理由がある。帰りに、何を買おう? そんなことを考えながら、ただ黙りこくって、時間が過ぎるのをじっと待ち、僕は立ち上がった。
「もう、帰ろうか、寒いし」
「……うん」
 手も繋がない僕らは、微妙な距離を取りながら、バス停までを歩いた。
 バス停で、僕が一刻も早く、自分の路線のバスが来るのを祈りながら、その苛立ちを悟られないようにと俯いていると真沢が言った。
「恋人、ってこんなかな」
「……え?」
「カレシカノジョって」
 僕はその表情を確認しようともしなかった。きっと、真剣なものがそこにあったのに、僕は適当に応えた。
「そうなんじゃない?」
「……そう?」
「うん」
「そうか」
 ため息が聞こえた。その意味も考えなかった。僕は、義務は果たしていたかもしれないが、演技の方にはまったく気が回らなかった。真沢は言った。
「あのさ」
「ん?」
「……あのさ」
「うん……」
「あのさ」
「……?」
 僕はようやく真沢を見た。微笑んでいた。僕は、そこに他の何も見つけなかった。かほ里相手になら勝手に働く感受性とやらを、僕は惜しんだ。ただじれったくて、苛立たしかった。
「あのさ」
「だから、何?」
「うん」
「だから――」
 僕の乗るバスが、角を曲がって近づいて来るのが見えた。ほっとする。
「あ、バス」
「うん」
「それじゃあ、コレ、乗るからさ――」
「うん」
 バスが止まる。待ちきれなくて前掛かりになった僕の背中に、優しい声。
「わたしのこと、好きじゃないよね?」
 思わず、少し固まる。上手いコトバがみつからない。
「っていうか、み――」
 だけど、彼女が止めたコトバの続きを、僕は想像もしない。開くドア。ステップに足をかける。整理券を取る僕の背中に、彼女は言った。
「これで、終わりにしよう」
 ようやく僕は振り返る。
「え?」
「受験前だし、勉強しなくちゃだし」
「……」
「これで、最後」
「……」
「さよなら」
 惰性で乗り込んだ僕と微笑んだまま目を逸らした真沢を、取り返しようもなく自動扉が遮る。僕は、窓際の席に座り、曇るガラスを拭く。俯いて、儚く佇む真沢の視線は、もう僕に向けられやしない。
 遠くなるその少女の姿に、かけるべきコトバが遅れて頭に溢れるけれど、僕にはもうどうしようもない。
「止めて、降ろして」なんて、運転手に叫ぶほど、僕にカノジョへの情熱はなかった。
 どうせ「ドラマごっこ」だろ。だりぃ。
 とりあえず僕は母に奪われたCDを買い戻せたことに、満足することにした。仮にこれが終わりでも、悪い仕事じゃなかった、そんなことを考えながら、僕は暖房の効きすぎたバスにあくびをしながら揺られた。
 そして、僕は数日後、遠藤から誰もいない音楽室に呼び出しを喰らった。
 本当の「飼い主」から。
 彼女の真剣な顔が、不吉だった。僕は、何も言えなかった。
「泣いてた」
「……」
「佳織」
「……」
「幸せにしてあげてって言ったよね」
「……」
「なんで泣かすの?」
「……」
「なんで別れるの?」
「……」
「なんで?」
 なんで、って。そんなこと言われても、僕にもわからない。だから、やっぱり何も言えなかった。怒りにまかせた強いため息をひとつ、遠藤は吐いて、そして、小さく言い放った。
「そんなひどいやつだと思わなかった」
「……」
 遠藤の瞳が、僕を突き殺しでもしそうに、睨み付けている。反射的に、怒りがこみあがる。
 一体僕が何をした!
 何もしなかっただけじゃないか!
 でも、僕は、そんな怒りを、ストレートに遠藤にぶつけられる立場にいない。彼女は、飼い主で、金づるで、ご主人様だった。
 そうだ。僕はこのころずっと、真沢の希望を叶えるふりをして、その実、遠藤のご機嫌をとっていただけのことだった。
 その時の僕が、そうはっきりと理解していなくても、いまの僕にはわかる。
 その時の僕が、神妙に俯いていたとして、その下げた頭の中に、例の五千円札のことしか頭になかったことが。
 その時にいたっても、まだ遠藤の財布から、それが出てくるのではないか、と涎を垂らしていたことが。そんな卑しい自分が。
 でも、そんな僕の本性を見抜いたみたいに遠藤は言った。
「返して」
「……」
「お金」
「……え?」
「返して、いますぐ」
「……い、いや、それは、だから、使ったっていうか、もうないっていうか、いまないっていうか――」
 遠藤は一歩踏み込み、僕の襟元を掴む。僕の喉をそれ以上の言い訳と一緒につぶすかのような強い力で。
「使わなかったでしょ?」
「……」
「佳織には、ジュースくらいしか奢らなかったでしょ?」
「……いや」
「四万円もするジュースがあるとでもいうの?」
「……」
「佳織のためのお金を、一体何に使ったのよ!」
 遠藤は怒りにまかせて僕の胸元を殴りつけるように、襟元を放した。
 何に使ったか。そんなことは、絶対に、言えない。
「言いなさいよ、何に使ったか!」
 僕は、固まったまま、やたら喉に引っかかるつばを飲む。全てを見透かされているような気がする。どこまでを言って良いのかを、僕は計算しつつ、でも、答えが出ない。だから声も出ない。
「言えないよね?」
 は?
「知ってるよ、わたし」
 何を?
「全部、知ってるんだから!」
「……何を?」
 遠藤が、突然、不敵に笑った。僕の背中に、冷たいものが垂れる。
「光屋さんに、使ったんだよね?」
「……」
「知ってるよ、光屋さんにイイコトしてもらってるんだもんね?」
「……」
「それで、お金渡して、そうしてもらってるんだもんね?」
 僕は息を吐く。冷たかった背筋に、ふわり血流が戻ったような気がする。彼女の誤認がわかったから。僕は、それを否定できるから。
「それはないな」
「嘘」
「いや、嘘じゃない」
「毎日毎日、一緒にいるじゃん! で、一緒に帰ってるんでしょ? それで、佳織にナイショでひどいことしてたんでしょ?」
「いや、それは違う。一緒には、まあ、いるけど、一緒に帰ってるわけじゃないよ」
「だって! 皆、そう言ってる」
「いや、皆ってのが誰かはしらないけど、誤解。光屋みたいなヤツが、僕を相手にするわけないじゃん」
「でも! 一緒にいるでしょ?」
「いるよ!」
 僕の張り上げた声に、遠藤が少し怯んだ。それで、潮目が変わったと感じた僕は、前のめりになりそうな身体で、必死に余裕を演じた。
「……」
「いるけどさ。なんていうか、似たようなアーティストが好きで、それで一緒に音楽聴いてるってだけ」
「……」
「それにさ。あの……」
「何?」
「遠藤って、口固い?」
「え? そのつもりだけど……」
「じゃあ、遠藤にだけは言うけど、光屋、オトナと付き合ってる」
「え?」
「うん」
「本当?」
「で、もう、オトナなんだよ。僕たちのしないことをしてる。その……わかるよね?」
「……あ……うん」
「だから、お金だってそいつからもらってるから困ってないし、僕みたいな男なんて、コドモっぽすぎて、まるで相手にしてない。だから、それは誤解なんだ。ある意味のトモダチであることは、認めるけど」
「……でも」
「知ってるでしょ? 僕、ほら、タスケタから」
「あ、ああ……」
「だから」
 さっきまで遠藤から発されていた怒りの気が、拍子抜けたように、緩み落ちていく。僕は、その機を逃すわけにはいかない。
「お金は、返す」
「……」
「必ず」
「……」
「でも、待って欲しい。なんとかするから」
「……うん」
 よし! やった! うやむやにしてやった!
 僕は、心の中で小躍りしながら、ありがとう、と退室を促すように遠藤の肩に手を置いた。うやむやにされていることに気が付いていないらしい遠藤は、それに素直に従った。そして、言った。
「光屋さん、援交してたんだ……」
 僕は、そんなことは言ってない。そう思わせる意図もなかった。
 でも、それが遠藤にとってわかりやすい解釈なら、僕がその場で否定する理由もまたなかった。やぶをつついて、カネを返させることに意識を向けられても困る。僕は、ははは、と愛想笑いをして、逃げるように遠藤を置いてクラスへと急いだ。
 僕は、その問題はそれで解決したと思っていた。だから、その後、暢気に受験という状況にふわふわとしていられた。幸いにも。
 でも、あれだけ真剣だったものを、穢してしまったことに、僕は、気付いてなかった。
 もうただ美しいだけの物語など、演じられなくなっていたことに。

<#19終わり、#20に続く


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