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【連載小説】僕のセイシュンの三、四日 #08

この物語はフィクションです。登場するあらゆる個人、団体、組織、事件、SNS等は全て架空のものであり、実在のものとは関係がありません。
また、この作品は2013年にKDP/Amazonにて発行された電子書籍版に加筆・修正をし、連載形式に分割して再発表するものです。
ここまでの話数は↓のマガジンに纏められています。


         ○

 その晩、僕はいつ眠りについたのか分からない。食事をしたのかどうかも憶えていない。
 ただ、夢かうつつか、アタシが店長に説明するから、と泉が言った様な気がした。僕は何か応えようとしたが、口を開く事も出来なかった。
 しかし、そんな風な気がしたのも一瞬で、僕はすぐに深い眠りに引き戻された。

         ○

 目が覚めると、午前十一時を過ぎていた。
 僕は服を着たまま床に寝ていて、布団が掛けられていた。
 遅刻だ、と少し焦ったが、そういえば、砂羽の面倒を見ると言ったんだっけ、と思い出してほっとした。
 エアコンは付いていたようだが、布団から出ると少し寒気がした。
 立ち上がり、窓から外を見るとしとしとと冬の雨が降っていた。
 砂羽はベッドの上から、テレビを見ていた。よっぽどテレビが好きなんだな、と僕は思った。
 僕は試しに「おはよう」と砂羽に向けて言ってみた。砂羽はこちらを訝しげにちらと見たが、やはり何も言わなかった。
 今日面倒を見るからといって、急に喋り始めるなんて事はないのだ。
 逆に活発な子だったら、僕なんかに世話は無理だったかも知れない。それでいいのだ、と僕は思った。
 頭がまだ重かったので、僕はシャワーでも浴びる事にした。普段ならその場で裸になるが、砂羽の手前、ユニットバスで服を脱いだ。
 暖かい湯が心地良かった。
 しかし、湯が身体の輪郭をなぞって、僕の股間を流れて行くのを見ていると、血に染まった精液の事をどうしても思い出さずにはいられなかった。
 病院に行けばはっきりするのだろうが、もし重篤な病気だったらと思うとその部分が縮み上がるのが分かった。
 とにかく砂羽がいる限り、僕と泉が二人で病院に行く事はない筈だった。
 それは怖くもあったが、どこかで安堵している自分もいた。

 シャワーを終えて部屋に出ても、砂羽は変わらずテレビを見ていた。昼前のニュース番組が映されていた。
 あまり身動きもしない砂羽を見て、この子は政治や経済や殺人事件の事を理解しているのだろうか、とふと思った。
「それ面白い?」と僕は訊いた。
 砂羽は何も応えなかった。
 とりつく島もない、とはこの事だな、と僕は思った。
 リモコンは使える様だし、面白くなければチャンネルを勝手に変えるだろうと考えて、僕は砂羽を放って置くことにした。
 キッチンに立ち、換気扇を回して、僕は煙草に火をつけた。煙が美味しかった。
 僕はいつも浅く、ふかし気味に煙草を吸う。しかし、その時はきちんと肺に煙を吸い込む事ができた。
 身体は十分休息を取れたようだった。
 煙草を吸い終わると今度は腹が鳴った。時間も丁度昼飯時だった。砂羽にも何か食べさせなければならなかった。
 応える事はないと思いながらも、僕は砂羽に話しかけた。
「昼ご飯、食べようか?」
 案の定、砂羽からの返答は無かった。僕は苦笑を押さえる事が出来なかった。一方的にでも良いから話しかけようと決めた。
「何が食べたい?」
「……」
「普段、どんなもの食べてるの?」
「……」
「そうだ、幼稚園とか行ってるのかな?」
「……」
「じゃあ、お弁当とか食べるのかな?」
「……」
 あまりにも反応が無いので、僕はかえって楽しくなってきた。
 僕はベッドの上に座った砂羽の横に腰を下ろした。
「歳は五つだったよね」
「……」
「じゃあ、小学校は来年? 再来年?」
「……」
「知ってるかな? 小学校行くと、給食ってのがあって、みんなで同じものを食べるんだ」
「……」
「僕の経験から言うと、あんまり美味しいものでもないけどね」
「……」
「まあ、それも中学校までの我慢。高校に上がると購買部でパンを買ったり、学校によっては学食があったりする」
 砂羽がちらりとこちらを見た。僕は勝手に喋り続けようと決めていた。
「学食っていうのは、学生食堂を短く言ったものだよ。まあ、これも安いけど、あまり美味しいとは言えないな。
 でも学生はあんまり贅沢は言えない。お小遣いが限られてるからね。
 学食ってあまり期待しちゃいけないんだ。でも、大学まで行くと学食はちょっとしたレストランみたいな感じだよ。
 僕が思うに同じ学食でも大学の学食はまあまあイケる。僕の行ってる学校の学食にはアイスクリームやパフェなんかもある」
 砂羽は何時の間にか僕の顔をじっと見つめていた。
 僕は何故自分が学食の話をしているのか分からなかった。
 別に食事のために学校に通った訳でもないのだ。
「学食、興味ある?」と僕は訊いた。
 覗き込んだ僕の視線から逃れる様に砂羽は僕に背中を向けた。
「行ってみたい?」
 後ろを向いていたが、こくんと砂羽が頷いたのが見えた。僕は初めて意思疎通出来たような気がして、嬉しくなった。
 暦上は春休みだったが、確か学食は営業している筈だった。大学まではバスに乗るが、そう時間が掛かる訳でもない。僕は決めた。
「じゃあ、一緒に行こう、そこで昼ご飯にしよう」
 僕は立ち上がり、砂羽の脇を抱えてベッドから降ろして立たせた。
 つくづく子供というのは小さいなと思った。
 部屋の隅に置いてあった小さなニット帽とミトンとコートを着せるのを手伝い、自分もコートを着た。
 そこで初めて、復学するかどうかを迷っている自分が大学の学食に行くことの気まずさを感じた。
 しかし、砂羽が興味を示した事の方が大切な事のように思えた。
 それでも、プレッシャーを追い払う為に、部屋を出る時、よしっ、と一つ気合いを入れた。砂羽は不機嫌そうにそれを見ていた。

 寒かった。雨は降り続いていた。
 子供用の傘は無かったので、はじめビニール傘を砂羽に持たせたが、ミトンを着けた小さな手では大人用の傘をどうにも上手くさせない様子だった。
 濡れさせて風邪をひかれても困ると思い、僕はまたバス停まで砂羽を抱き上げて歩くことになった。
 両手で支えられない分前日より辛かったが、首にしっかりとしがみついてくる砂羽の、その重さが暖かいものだと僕には感じられた。

        ○

 春休みのキャンパスは人もまばらだった。学食も昼時だというのに閑散としていた。普段はサークルの連中が場所取りをしているテーブルもおおよそ空いていた。
 僕たちは食券の券売機の前に立った。砂羽が喜んでいるのかどうか、表情からは分からなかった。
「何食べる?」と僕は訊いた。
「……」
 砂羽は券売機を見上げていたが、少し不愉快そうに眉を動かした。もしかして、と僕は思った。
「もしかして、まだ字読めないのかな」
 砂羽は返事をしなかったが、僕は、そうか、そうだよな、まだ学校行ってないもんな、と砂羽に言った。
 僕は自分がいつ字を読めるようになったかもすっかり忘れていた。誰でも字が読めるものだといつのまにか思い込んでいた。
 僕は、じゃあ読んであげるから、食べたいものがあったら教えてくれる? と言った。
「ざるそば、かけそば、月見そば、天ぷらそば、かけうどん、月見うどん、天ぷらうどん、醤油ラーメン、塩ラーメン、味噌ラーメン、カレーライス、カツカレー……」
 砂羽の反応は無かった。僕は続けて読み上げた。
「エビピラフ、あんかけ焼きそば、親子丼、カツ丼、天丼、A定食、これは今日は豚のショウガ焼きだね、B定食はアジフライ……」
 ふと砂羽を見ると、唇を噛んで何か気に食わなさそうに僕を見上げていた。
「どうしたの? 食べたいもの無いの?」と僕は訊いた。砂羽は俯いてしまった。
「そうか仕方無い」僕は言った「それじゃあ、僕が選ぶから、我慢して食べてくれる?」
 返事が無いのを待ってから、僕は親子丼とエビピラフの食券を買った。
 砂羽には両方見せて、どっちか食べたい方を選ばせれば良いと考えた。
 だが、近くのテーブルに席を取った後、僕が配膳カウンターからそれらを持ってきて並べても、砂羽はなかなか手を伸ばそうとしなかった。
 それじゃあ、半分こ半分こにして両方食べるようにしようと言い、僕はまず親子丼をかきこみ始めた。
 久しぶりに飯を食っているという気がした。何故だか嬉しくて、砂羽に笑いかけた。
 砂羽は不思議そうな顔をして、僕を見ていた。
 僕はエビピラフの乗ったトレイを砂羽の前にずらして、食べなよ、と言った。そうして砂羽はやっとスプーンを持ち上げた。
 僕が親子丼を半分平らげた時、まだ砂羽はピラフを五分の一も食べていなかった。
 テレビを見ながらでもそうじゃなくても、食べるのは遅いのだと僕は妙に感心した。
 僕は砂羽が食べ終わるのを待つことにした。その頃、禁煙運動が盛り上がって来た時期で、その大学の学食もいち早く禁煙になっていた。
 煙草を吸えないと何だかすることが無くて、僕はただぼんやり学食の壁を見ていた。
 注意深い人ならそこに何人いて、それがどういう人達で、何をするのかなどを観察するのかも知れないが、僕はただ本当に間抜けそうな顔をして砂羽が食べるのを待っていた。
 だから、不意に肩を叩かれた時、僕は少し椅子から飛び上がってしまった。
 振り向くとそこには苦笑いを浮かべた男子学生が立っていた。
「高橋、だよな?」と彼は訊いた。
「そうだよ」と僕は言った。
 僕は目の前の学生の名前を思い出せなかったが、ひょろっと背が高く、丸眼鏡をした顔には覚えがあった。語学のクラスで一緒だった筈だった。
 彼は僕を品定めするかの様に見回した後、エビピラフを食べている砂羽を見た。
「お前の子?」と彼は言った。
「違うよ」と僕は答えた。
「じゃあ、カノジョ?」
「まさか」 
 少し慌てた僕を見て、彼はアハハハと笑い、ジョークだよ、と言った。そして、ごく自然に砂羽の隣に座った。
「こんな小さい子が学校にいるのは珍しいよな。で、ほんとのとこは?」
「知り合いの子なんだけど、色々あって、今日は僕が面倒を見る番なんだ」
 ふうん、と彼は言ったが、納得してはいなさそうだった。彼は眼鏡を外し、ふっ、とレンズに息を吹きかけて、僕を見た。
「久しぶりだよな」と彼は言った。
「まあ、そうだね」と僕は応えた。
「学校来てた?」
「いや、休学してるんだ」
 彼は細い目を丸くした。そして眼鏡をかけ直して、マジで? と身を少し乗り出した。
「嘘ついても仕方無いだろ?」と僕は言った。
「そりゃそうだ」と彼は頷いた「え? でも何で?」
「何で、と言われるとちょっと困るけど……」
「何か深刻な理由でも? 病気とか、家の都合とか」
「いや、そういうのではないけど……」
 僕はこの男の相手をするのが億劫だった。
 砂羽の真似でも出来たら楽なのにな、と何となく思った。
 思えば、泉は僕に休学の理由を尋ねたりしなかった。僕はそれで泉を好きになったのかも知れない。
 僕の中に言葉に出来ない何かが固まっていて、多くの人はそれをなで回したり壊そうとするけれど、泉だけはそうはしなかった。
 ただ在るままに、寄り添ってくれたのが泉だった。
 僕はそんな事を考えていたが、彼の好奇心はまだ収まらないようだった。
「じゃあ、何かやりたいことでもあったとか? 旅とか、趣味とか」
「いや、そういうんでもないけど、何となくっていうか」
「親とか許してくれた?」
「無断で届けだしちゃったから」
「やるね。仕送りは?」
「勿論、ないよ」
「じゃあ、働いてんの?」
「バイトかな」
「何の?」
「本屋の」
「時給安いだろ?」
「まあ、高くはないよね。でも楽だし、その分時間働いてるし……」
 ふうん、と彼は僕を見据えた。その丸眼鏡の奥の細い目に射貫かれているような気分になった。
 知らなかったけど、と彼は言った。
「変わった奴だな、お前」
「そうかな」と僕は返事した。
 僕には彼に訊きたい事は無かった。早く行ってくれたらいいのに、と心の中で思っていた。
「俺はさ」彼は言った「ゼミの先生の手伝いに来てるんだ」
「ああ、そう」
「手伝いって言ったってコピー取ったり、お茶淹れたりするくらいのもんだけど」
「そうなんだ?」
「でも、その先生の本読んでここを受験しようと思ったんだ。だから一年の時から押しかけてたんだ。知ってる?」
 彼はその学部の看板教授の名を挙げた。
「バイト先にあるよ、その先生の本。読んだことはないけど」と僕は答えた。
 彼はまたアハハハと笑った。
「やっぱりお前変わってるな。で、春から正式にゼミ生になる事にして、もっと真剣に勉強しようと思ってるんだ」
 それがどうしたというのだ、と僕は心の中で毒づいた。でも、口を突いて出たのは、へえ、それは羨ましいな、というお世辞だった。
「で?」と僕は訊いた。
「それで、今のバイト辞める事にした。派遣の家庭教師」
「うん。それで?」
「時給は二千五百」
 僕の時給の四倍近かった。
「そりゃあ、すごい」僕は素直に言った。
「辞めるなら、後釜を紹介しろって会社がうるさくてさ。本当は後輩とか紹介するのかもしれないけど、俺、ずっと先生の所にいたから、サークルも入ってないしさ。困ってたんだ」
「それで?」
「お前が良ければ紹介するよ」
 僕は彼の話の展開について行けなくなりつつあった。
「ちょっと待って」僕は言った「君とは一年ぶりに顔を合わせたばかりだし、その上話しだってあまりした事無いだろう?」
「うん」
「それに今はまだ復学するかどうか迷ってる段階なんだ」
「うん、でも少し働いて、いっぱいもらえる方が良いに決まってるだろう? 復学しようが休学しようが。一日二時間働いて、五千円。一日に二人担当することもある。そしたら、一万円。こんな仕事他にないぜ」
「それは確かにすごいと思うよ。でも、そういう問題でもないんだ」
「子供は苦手じゃないんだろ?」彼は砂羽をちらと見た「生徒の夏休みとか冬休みなんてその気になれば朝から晩までかっちり稼げる。一応会社は禁止してるけど、季節ごとや成績アップした時には内緒のボーナスをくれる親だっている。悪くない話だと思わないか?」
 彼の確信に満ちた目を見ていると、なんだか流行の霊感商法に引っ掛かっている様な気分になった。
「君も相当変わってるな」と僕は言った。
「ありがとう。褒め言葉だ」と彼は応じた。
 それじゃあ、その気になったらここに電話してくれ、深夜の方が都合が良い、と彼は一枚の名刺を残していった。
 ○○家庭教師会・講師という肩書きと指宿宏明という名前、そして裏には自筆で電話番号が書かれてあった。
 僕はそれをどうして良いものか迷った。名刺なんてものには慣れていなかったのだ。
 捨てるのは気が引けた。僕は少し逡巡して、結局財布の中に差し込んでおくことにした。  
 そして、砂羽がようやくエビピラフを半分食べ終えた。
 じゃあ、こっちと交換する? と親子丼を差し出して砂羽に訊くと、こくんと小さく頷いた。

<#08終 #09に続く>

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