【人間の教科書】 モノは徳の高いお坊さん
今ちょっと風邪気味です。
それで寝ながら咳をしていたら、うちの猫が「にゃー」と言って僕のかたわらまで飛んで走ってきて寄り添ってくれたんです。
「あー、やっぱり猫は神様なんだな」って思いましたね。
そんなこともあって朝方、寝床でスマホにメモしたのが下の文章でした。
【ペットは守護霊。あるいは自由な存在。口が聞けないのも知性を放棄しているのもそれらの言葉は災いのもとと知っているからかもしれない】
動物はむやみに争わないですし。
言葉は災いのもとと知っているから言語も無いのかなと思ったり。
人間と猫も感情だけで大切なことは全部意思疎通できますし。
近頃ずっと「素粒子=意識」だとしても
じゃあ本は? パソコンは? ぬいぐるみは? レゴブロックは? 肉体は?
どんな意識で生きてるの?
「素粒子=意識だー」なんて思ってみたのはいいけど、そんなことありえますかね??
なんてことを自分の中で、もんもんと考えていました。
僕は植物さんたちにも気づけば、あいさつしたり、ときには「力を貸してください」だなんてお願いごとしたりしているのですが、
「君ら、1日中ただ突っ立ってるばっかりで、ひまじゃないの?」
と思ったりもします。
しかし先述した猫の寄り添いのなか眠る朝方、夢うつつの意識の中で、はたと気が付きました。
猫には人間のような厄介な自我の意識が希薄だ。
だから人間なんかより簡単に他の生命と調和が出来る。
とすると、だ。
いわゆる「物体」はほぼ完全に自我を持っていない存在と考えていいんじゃないの?
だから自分勝手な振る舞いをしないんじゃないの?
そう思って寝床で下のようなメモを取りました。
【モノは自我の無い究極の存在。
モノとしての働きにその身を捧げ抜く高次の存在。覚者。
人間は不自由かつ自由な自我存在。
このように全ては等しくなるように出来ている。これを知ることが大切。
モノは超高次元知性。ただあるがままの姿として今ココの永遠として充足し続けている。モノは徳の高いお坊さんだと思いなさい。人間とモノは主従関係では無い。モノは人間がモノの霊性を獲得する時を待っているのだ。
我々は徳の高いお坊さんに囲まれて暮らしているのだ。だからモノを粗末に扱ってはいけない】
なるほど、そういうことだったんですね。
物質のことを僕らはなんとなくレベルの低い存在と思ってきたフシがありますけど、「ひとつの働きを貫き通す」という意味では物質は覚者なんですね。
その代わり人間に与えられているような自由度はありません。
自己主張も基本的にはできません。
でもそれを必要としないのは、まさに彼らが覚醒した意識を持っているからといってもよいでしょう。
(捨てられても粗末な扱いを受けても、基本的に抵抗も抗議もしないのです。ただ全身で世界に奉仕するのみ。無我の境地で人間を透徹した心で見つめているだけです。その意味で彼らはまさに覚者です)
※ちなみに僕が、すべての物質=素粒子を意識とみなすようになったのは、他の記事にも詳しいですが、決定的なのは食パン実験の結果によるところが大きいです。だから「ありがとう習慣」も継続できています。
(※このあたりのことは別途、詳しく記事にしたいですね)
素粒子=意識、これはスピ的に言えば今、目の前にワンネスがあるということです。
そして素粒子=意識であるならば、すべての存在は等しい。
しかし特性は異なる。
例えるなら100のパラメータが一定の割合で割り当てられているといったようなところでしょうか。
物質は「自我0」「外面の自己認識度100」=「自己一貫性100」
動物は「自我30」「外面の自己認識度70」=「自己一貫性70」
人間は「自我90」「外面の自己認識度10」=「自己一貫性10」
大雑把には、こんなイメージでしょうか。
ヌーソロジーでは、ひとつの特性は必ず反対の特性を併せ持つ、といった考え方がありますが、これらがぴたりと当てはまる気がします。
(ひとつの特性は長所でもあり短所でもある=どれもただの特性)
人間が世界を自らの身体を使って作っていける、そういった自由度を獲得しているということは同時に自己一貫性を失っていることも意味します。
物質は自己一貫性を高く堅持しているかわりに、人間のような自由度でもって世界を自ら構築していくことはできません。
これらはどちらが上でどちらが下ということではなく、立場は同じということです。相補関係にあると言ってもよいでしょう。
そして、なぜ我々が美術に心を奪われるか。
といった問にも答えが不意に見つかりました。
(おー、急に話が変わるなw)
美術品に魅了されるのは、一時たりとも一定ではない、無常である人間とは異なる「永遠性」をそこに見出すことができるからではないでしょうか。
優れたモノづくりのアーティストは言わばモノと対話できる存在です。
モノへの敬意と奉仕がそこにはあります。
美術品は、モノと人間の二人三脚によって出来上がっているわけです。
よく美術品のことを単に「作品」ではなくて「僕の子どもたち」といった言い方をすることもあると思うのですが、それは直観として正しいのです。
そういった魂の根源的な理想を美術品を通じて感じとるがゆえに私たちは感動を覚えるのではないでしょうか。
(よく人間が鉱物や昆虫に輪廻することはないなどと言われていますが)
とすると輪廻の方向は自由であるのかもしれません。
ただし人間の方が高等と思われているから人間は人間にしかならない。
また人間化した動物も人間になることを選ぶ。
しかしその次元をさらに超えるとモノと自然に回帰していくことになる。
そういうことではないでしょうか。
つまり人間とは、きっと「肉体という物質性」と「自由な意識」を兼ね備えた存在なのです。
平たく言えば人間は、鉱物にも植物にも動物の特性を取り込み得る存在なのです。
とはいえ今は、人間は人間の枠を超えることができていないようにも思えますが。
「自我」が肥大した「人間」が自我を乗り越えて「主体」を取り戻し、
かつ動物や植物、鉱物たちの優れた霊性を自らの中に対化として意識し、等化へ導けたときこそ、人間は「ヒト」や「霊人」あるいは無限叡智と呼ばれるような完全体、言わば太陽のような存在へ進化できるのではないでしょうか。
いやー、きっとそうに違いない。
(あれ?ついてこれてますか??僕、暴走してますかね?)
ちょっと今日は、とりとめもない記事になってしまいましたが汗。
お読み頂き、ありがとうございました。