手のひらの力
「目は口ほどにものを言う」と言いますね。
目はその瞬間のその人の心の内側をよく映すと思います。
その瞬間のみならず、その人の目の奥に、どんな人生を送ってきたのかが見える時もあります。
この人のことを全く知らないけれど、同じような景色を見てきた人なのかもしれない、と思わせられる目を持つ人に、たまに出会います。
私は、人の手を見るのが好きです。
細くて長い、バランスの良い指に惹かれるとかそういう話ではありません。
(いや、それはそれでとても魅力的ですけど!)
私が好きなのは、長年その人として使い込まれてきた手。
分厚かったり日に焼けていたり、曲がっていたり。
その手は目よりもくっきりと、逃れようがなくその人の生き方を表すと思っています。
小さい頃、曾祖母の手は同じ人間とは思えないくらいにゴツゴツとして見えていました。
指は太くて節々はしわだらけ、真っ茶色に日焼けして、爪はいつも黒かった。
おばあちゃんになるって、硬くなっていくことなんだ、と思ったりもしました。
曾祖母は毎日畑仕事をする人でした。
真夏の炎天下でもかまわず、時間があれば畑に出ている。
家のことをしたり、一緒に遊んだりもしてくれましたが、一番、土がしっくりと合う手だったのだと思います。
父の手は、大きくて太くて、けれど丁寧な仕事をする手でした。
指先が器用で何でも自分で作ってしまう手。
大きくて荒々しく見えるのに、細かいことを難なくこなしてしまう。
指先に的確に、きゅっと力が入る指だったのだろうと思います。
爪はアーモンドみたいに山なりにふくらんでいて、指先からいつも煙草のにおいがしていた。
私の右手の人差し指は、父と同じ爪をしています。
「毬絵ちゃん、人の手からはみんな "ゆき" が出てるんよ」
私の痛いところに手を当てて、そう教えてくれたのは、私の最初の茶道の先生。
さらさらとして温かい手のひらと、「ゆ、き」と歌うようだったその声を、今でも大切に覚えています。
人の手のひらにはみんな、誰かを楽にする力がある。
だから辛いところに手を当てなさい、そうして優しくやってくれた、痛いの痛いの飛んで行け。
大きくなってやっと、「ゆき」は「癒気」と書いたのだろうと思い当たりました。
その手を使って、日々仕事をしています。
「お母さんと同じ、白くて細くてきれいな手やね」と言ってもらってきた私の手は、ただきれいなだけではなく、使える手になりつつあります。
身体の硬いところ、流れが悪いところを瞬時に把握する手のひら。
表面や深部の温度を感じ取る指。
それから時には患者さんに驚かれるほどに温かい温度。
しっとりとしてほどよく厚く、やわらかく肌になじむ手。
触れられるだけで気持ちが緩むような、そんな手にどんどんと使い込んでいきたいものです。
燃えているお灸を手でつかむので、右手の中指と親指はいつも焦げて茶色い。
ほんのり煙のにおいもします。
でもその手を見るたびに、ちゃんと使っているなと嬉しくなります。
手のひらから伝わってくる「ゆき」は、心にもしっかりと届きます。
手当て、が全ての医療の始まり。
触れられた誰かの手が温かい、たったそれだけだけれどそれこそが、どうしようもない時も生きていける力になると信じています。
これからこの手を通してどんな人たちと出会って、どんな人生を生きて、どんな手になっていくかしら。
使い込まれた自分の手が、今から楽しみ。
煙くさい右手を携えて、自分の手のひらを信じて、今日も元気です。