覚え書くだけでも(自分の真面目さ、愚直さを下手くそに科学する)


自分の真面目さ、愚直さについて、いいことも悪いことも、覚え書きにしておこうと思iい、書き出してから一週間経ってしまった。
ひと区切りとして、投稿に踏み切った。

気持ちの整理がついていないし、情報収集のために集めたラベルのうち、果たして自己呈示のために必要なラベルが何なのかわからないままなのだが、今はとりあえず覚え書きにする。まとまりの悪さは、ご愛嬌。
いつか稿を改めて、もっと筋道の通った記録にできたらいいなと思っている。

(追記。何がどうあれ、対話でどちらかの気持ちが乱れたときに「ありがとう」と「ごめん」が言える人でありたいし、相手にも言えるようにしてほしいと思う。今のところ、これが「万一事故った時の最善策」という結論だ。それが難しいのは承知だが、習慣づけはできる気がする。言語も関係ないと思う。)

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自分の真面目さ、愚直さは、ASD傾向といわれるものにつながる。感受性の高さや他者からの本音の見えにくさは、HSS型HSPと言われるものに近いし、ASDに随伴する確率が高いと言われる非定型な感覚のアンバランスともいえる。
自分ではADHDの傾向が強いと思って自己管理してきたけど、かかりつけの精神科では、ADHDよりASDの方が強そうと言われている。

もしかしたら、視力の低い人にとっての眼鏡のように、テクノロジーの発展で、不注意や方向音痴はそれほど悩まなくてもいいものになったのかもしれないとも思う。
電波が途絶えるような山には登れないし、交通網や道路網の複雑な都市にはなかなかひとりで行けないけど、そこは割り切っている。

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心理学的なラベルとしては、HSPに関連して、MBTIの公的な検査も受けた。
HSPは、心理学の用語だけど、発達障害と同じくらい定義が難しいと思う。
MBTIの方が分類基準が明確な気がするけど、今のところ公的な場面で使う機会はなさそうだ。
INFPと理解したけど、ペーパーテストではISFPで、今はどちらでも有り得るなと思う。過剰適応する方なので、NとS、どちらが後天的な要素なのか、過去の整理をするうちに、だんだんわからなくなってきた。これは過剰適応の正の影響だと思うが、雇われて働くにはいささか難があるが、ひと通りの家事や社会的な手続きは、体調がよければ、強迫的なくらいにキチキチやろうとする。と言っても、必ず抜けはあるし、雑なところは雑だが。

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「(コミュニケーショントラブルの背景に)ASDの傾向があるだろう」と、何度か精神科で医師およびカウンセラーの先生に言われてきたけど、どうやら診断には至らないらしい。というより、診断をもらう必要がある状況ではない。

ASDという概念も、「AS(Autism Spectrum、自閉スペクトラム)」までは理解できるけど、「D(Disorder、障害)」の所在が自分の至らなさなのか、社会や各人の他者理解の不足によるものなのか、よくわからない。その「わからない」の答えを日本語で求めすぎて、不用意に発信しすぎると不要な揉め事を呼ぶのが悩みだった。だけど、アメリカ版Wikipediaの「Autism」の項目を翻訳機能に甘えながらざっと読んだら、どうでもよくなった。所詮、突き詰めても私一人で答えを出せるものではないことを、思い知った。その「わからない」は、機が熟すまで、いや、熟さなくても、内なるADHD的要素に向き合ったときのように、自分の中で育てておけばいい種だ。主治医が変わる前に、気づけて良かった。

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感受性の高さは、占いの記述を複数組み合わせた方がしっくり来るなとも思う。「スピってる」などという揶揄の表現もあるみたいだが、民間伝承に裏打ちされた古式の統計学と思えば、面白い。医学や心理学の用語より示唆的な部分が多いので、解釈の余地があって好きだ。

占星術やマヤ暦、数秘術、四柱推命など、無料占いで見られるざっくりした記述でも、自分の「変人さ」へのエビデンスが揃いすぎていて、もうお腹いっぱいになるくらいだ。
昔有料で鑑定してもらったことが、当時「ちょっと的外れかも…」と思っていたのに、帳尻が合うことも多々ある。脳が過去に記憶した言葉に影響を受けているだけだとしても、あの時聞いておいてよかったなと思うことは、多い。

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「スピリチュアル的」と言われる語彙を不用意に使うと、これまた揉めたり相手を困惑させたりしやすいのが悩ましいが、科学の知見で得たラベルも、安定した人間関係をもたらすことは、治療以外ではあまりなかった。やっぱり、ラベリングの負の要素として、「同じ」であるという前提を共有するのがすごく難しいのだ。

バックボーンや得意分野、現住地など、何かが違う人の方が、程よい逃げ場ができて長くお付き合いが続く気がする。自分が内なるこだわりや満たされなさで視野を狭めている可能性は大いにあるけど、それでも、金子みすゞの「みんな違って、みんないい」という価値観に、最後は帰結する。

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自分の真面目さは、感覚的には一度、「宇宙人与太郎」という表現にまとめた(こちらの記事)。だけど、今のところ、しっくり来る普遍的なラベルはまだ見つかっていない。最近気に入っている「さそり座の女」も、やはり一面的でしかないし、あの曲のエンタメ性に引っ張られ過ぎている気がする。

ラベルをうまく使えないなら、人と関わる上での間の悪さや感覚のズレは「宇宙人与太郎」で十分だし、まだ眠っている自分の女性的な部分、すなわち自律しつつ自分を労わる能力は、「良妻賢母」レベルに開花させられたらいいなと思っている。いや、すっと良妻賢母は息が詰まるし、高望みしすぎだ。性別も気にしなくていいならその方が良い。
脳内のお花畑が、適度に潤って、適度に音楽に揺れ、風通しがよければ、それでいいのかもしれない。

宇宙人で与太郎でも、最低限の礼節と敬意を、臨機応変に使って流れていければ…と思う。思うけど、一筋縄ではいかない。その時の双方の状況や相手の表現の得手不得手、文化のコードに大きく左右される感覚がある。
自分の緊張や不器用さが生んだ心の傷で、無意識の攻撃をして、相手の礼節に反して返り討ちに遭うことも、まだある。また、こちらが怒ったり取り乱したりしてしまう原因を探ると、あちらが私の過去の古傷を無意識にぐりぐりしていたことも多いので、もっと自分に優しくしていけるよう、努力はしている。

半径数メートルの幸福は、自分の認知が穏やかになることで生まれるとも、頭では理解できている。「いや、わかってないだろう」と否定されることもあるけど、字面としては本当にわかっているのだ。身体知になっていないだけで。

「知る」の定義も人それぞれだ。言葉で前提を探り合えない人とは、なかなか意思疎通が難しい。私も傷が開いて自己防衛モードに切り替わると、闇雲にパンチやキックを繰り出すばかりで話が頭に入ってこなくなるので、お互い様になってしまう。不毛だ。
トラウマに至っては、あるかないかの議論からスタートになるようなので、これも自分一人で理解しようとするのは早々に諦めた。カウンセリングに頼ることにしている。
(数年前に、太平洋戦争時の戦争神経症患者のカルテが公文書として公開されたそうなので、研究が進むことを祈っている。)

心(脳の神経伝達と言った方が良いのか)と身体の連動が、かなりイマイチな私が身体知を得るためには、やはり言葉を使って下調べして安心できる場所を探し、挑戦と失敗を重ねるしかないのだろうと思う。
心の傷の治り具合を試す、不毛な確認行為は、引き続き対策して、もう少し減らしたい。

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雑にまとめると、最終的には、いわゆる「自分のトリセツ」を作っていかないといけないと思っている。どこの感覚が鈍くてどこの感覚は過敏なのか、何が強くて何が弱いのか、何をしたら喜怒哀楽につながるか、何を言われたら傷つくか。自分なりにまとめてみたい。

最近見返しているドラマ「西園寺さんは家事をしない」の序盤に出てくる、優秀なエンジニアのシングルファーザーが万一に備えて書いた、幼い一人娘のトリセツに感銘を受けた。あれくらいキチキチとした言語表現に挑戦してみたいが、できない完璧を目指して病みそうでもある。
(この「できない完璧」への憧れは、翻訳の仕事をしたいと思って勉強に取り組んでも、独学では進まないのと関係していそうだなと思う。動機づけにXのプロフィールに野望を書いてみたが、一度全削除した。)

もうフルタイム復帰は諦めているけど、脳内のお花畑が生き生きすることに取り組みながら仕事できたら、この上なく経過は良好になると思う。「仕事」と「お花畑が生き生きすること」がイコールなのかどうかは、まだよくわからない。

(※出典は、雑記なので、あらかた省いた。自他を隔てる膜の弱さの影響で、気をつけないと、SNSの個人的な記録も、専門家の書いた本の情報も、ふと目に入ったものは同等に頭に入れて、一緒くたに記憶してしまう。SNSの「つぶやきめいたもの」の方が感情のほとばしりを感じる分、印象が強いこともある。だから今は省く。)

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