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【怪物】感想 自分だけの幸せ/見えないところに配慮することの難しさ
作品の鍵となる部分に触れているので、まだ観ていない方はご注意を。
映画鑑賞後すぐに書いた記事を、あれから数年経った今少し手直ししてnoteに持ってきた。
観に行ったのは公開初日。この日東京には台風が来て外は轟々の雨、会社では夕方ごろ早退命令がでた。さすがに帰るか…とも思ったが、仕事のストレスでやけくそになっていたこともあり、今日は映画日和だ!と自分に言い聞かせて雨風吹きすさぶ新宿を歩いて映画館に向かったことを覚えている。
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電車のデジタル広告で見ていた本作のCMはとても短く、主要登場人物の表情が切り替わっていくだけのものだった。だから彼らの表情だけが頭にこびりつき、ストーリーに関しては想像すらついていないままスクリーンで全容を見ることになった。そしてあの苦しさが充満する湊の表情とちぐはぐな、戯れるような嬉しそうな依里の笑顔の意味するところがわかって、鼻の奥がつんと痛くなった。
理性や自分の所属する社会の中の普通と、抗えぬ自分の性質との矛盾に戸惑う湊。自分を運ぶ流れに身を任せ、時折大人びた諦めのような落ち着きを見せる依里。幼い二人は「怪物だーれだ?」の合言葉で秘密裏に繋がり、ひと夏の青春を過ごす。
秘密基地である廃電車の中で彼らがゲームをするシーンが特に印象的だった。
「かたつむり」や「豚」が描かれた自作のゲーム用カードの中には、「怪物」の絵が紛れている。彼らの想像する怪物は、黒いハートに手足が生えたような姿だ(ハートではないのかもしれないが)。ハート形土偶に近い造形。なぜ彼らにとっての怪物はあんな形なのか。鋭い牙や角はないし、こちらを睨む目も持っていないし、人間のように直立している。しかし、体は棒人間のようで、頭はハート形。ただ人のような形をした、人ではない得体の知れないものが表されているような絵である。
激しい雨の中、電車は始まりへと出発する。
「生まれ変わったのかなあ?」「いや、そんなのはないと思う」「そっか、よかった」
彼らは自分たちを制限する柵のない世界に辿り着き、ありのままでどこまでも一緒に冒険するのだ。
私はこの映画がクィア・パルム賞を受賞したことを知っていたし、この受賞が意味するところも分かっていた。しかし映画の中であまり同性愛を特別に感じることはなかった。二人の間にある愛情の特別感や問題提起を際立たせるために「同性」というカテゴリーで扱っているのではなく、ただ自然発生的な恋愛として描いているように感じたからだと思う。勿論、同性愛や性別役割、容姿いじりをまるっと無視してこの映画を観ることはできない。だがそれに限定された問題ではないような気がするのだ。
湊は「なんで生まれてきたんだろう」と所謂"家庭"を持つような普通の幸せを手にすることができない自分の存在に疑問を抱くが、それは性的指向のマイノリティーに限った話ではない。性的にはマジョリティーな人間でも、社会で「幸せ」だと定義されているグループに入ることができず、幸せになれない自分は何のために生きているんだろう、何のために生きていくんだろうと思うことはある。家族や恋人、子ども、学歴、美、お金、仕事。SNSで幸せの競争が苛烈を極める中、自分だけの、自分の為の幸せを享受することを忘れてしまう。校長先生が湊に言った「誰かにしか手に入らない幸せなんてそんなの幸せじゃない」という言葉は、固定された幸せを手に入れられなかった人たちを可哀想だと言い捨てる社会への反抗のように聞こえた。
直接的に扱われたテーマだけではなく、もっと普遍的な愛情や幸せについても語られているような気がした本作。「一般的じゃない人間」が生きていくことについて、他人事ではなく、自分自身のことのように考えながら鑑賞した。
-- 追記--
これを書いた当時クィア・パルム賞はLGBTを扱った映画に対して贈られるものだというざっくりした知識しかなかったが、もう少し詳しく調べてみると「クィア」とは「風変りな」「奇妙な」という意味もあることを知った。賞自体はやはり性的指向に関する映画を評価するものであるようだが、この作品は性別のことに限らず「風変り」な人たちに向けたものだと私には思えた。賞の授与において審査員長が語った言葉が正にこの映画の意義を表しているようで、そのメッセージがじんわり胸に染みた。
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この映画の中で気になった人物がもう一人。保利先生だ。彼は偶然に偶然が重なって破滅に追い込まれたような不憫な男である。しかし彼の転落の原因はその人の良さが裏目に出たことだけではなく、彼自身の不器用さも大いに関係している。ここからは保利先生に対する厳しい個人的目線(ごめんねホリセン)で語っていくので、映画から受けた純な感動を損いたくない方はこれ以降は読み進めないことをお勧めする。
彼の不器用さがよく出ていたシーンは以下3場面だと思う。
1つ目は、あの明らかに趣味趣向の異なる女性との交際である。堀先生の趣味は本の誤植を見つけること。本がぎっちり詰まった本棚のあるアパートに住み、プロポーズは何気ない日常の中でさらっとしてしまうような文化的で庶民的な男である。一方彼女はイージーな人生を送っていそうな明るい茶髪のちょいギャル美女で、プロポーズは夜景の見えるところでするものと言う女。保利先生とは性格もファッションも生活スタイルも違う。彼らはどうやって出会ったのだろうか、そしてお出かけ中にはどんな話をするのだろうか。謝罪会見の後彼のアパートに来たパパラッチは、彼女が呼んだものだと私は思っている。利用できるだけ利用して、使えなくなったらポイ、というわけである。カップル間の温度差に保利先生は気づけていなかった。
2つ目は、生徒への接し方。子どもは先生や親が絶対的に正しいと思い込んでいることがある。私にも台風のような反抗期の前にはそういう時期があった。「男らしく」などの些細な言葉が時に子どもたちの中で大きく響き、彼らを苦悩に陥れてしまう。また、子どもたちの行動や発言の真意を見抜く洞察力も本作では重要なポイントだったように思う。だが洞察力にも限界があり、神ではない私達はすべてを見通すことなどできない。見えないリスクに配慮することの難しさ。
3つ目は、湊の母への謝罪時の態度。これが致命的だった。学校への不信感、そして嘘をつく子どもへの不信感で溜まったストレスによってか、保利先生は謝罪会で自暴自棄になってしまう。言えと言われたセリフを言い、謝れと言われたから謝る。学校の方針に納得いっていないことを態度で示してしまった。それを罪を認めながらも不誠実な態度をとっているのだと捉えられてしまったのはもう仕方がない。
湊の母も保利先生も自分自身の苦痛を押し殺して、子どもたちを愛して大切に育てていただけに、この結末は辛い。後に残された大人たちにも、湊と依里がのびやかに暮らす楽園が見えるといい。見えて、この辛さを抱えながらも、絶望せずにいられたらいい。
-- 追記2 --
電車のデジタル広告とカンヌでの受賞ニュースしか前情報を入れずに映画を観て、私はこの映画のラストで子どもたちは別の世界に行った、つまり亡くなったのだと思った。彼らが乗っていた電車は土砂崩れに巻き込まれ、その衝撃により気を失った上に水が流れ込んできて…そして彼らは自分たちの理想とする晴れやかで自由な世界に逃れた、という想像をしていた。
しかし作成側の意図は違って、子どもたちは生きているのだと映画鑑賞後にインタビュー記事や動画を見て知った。細かい解釈の違いはあるのかもしれないが、監督と脚本家で「生きている」という点での認識は一致しているとのこと。
彼らは想像上の理想郷に逃げたのではなく、これからも現実を生きていくという話なのか。
自分の解釈と作成側の意図がこうも違うとは思わなくて驚いた。改めて、映画で明示していないことはあくまでも自分の中での仮説としておかないといけないなあ、自分の感想を信じ込んではいけないなと反省した。
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私は非常に主観的にこの映画を観たので、まだまだ考察に欠けるところがあると思う。感想文だから絶対に正しいことを書かなきゃいけないということもないのだけど。
他の人がどう感じたのか、どういう評論が出ているのか気になって少し調べたところ、面白い記事を見つけた。GQのCUTUREコラムに寄稿された、岡室美奈子氏の映画レビューである。記事のリンクを張ってもいいか微妙だったので、記事の概要だけ記しておく。
氏は本作の映画パンフレットにも文章を寄せているという。監督や脚本家の歴代作にも触れながら解説されており、本作を観る上で押さえておくべきポイントが分かりやすく書かれているので、気になる方は是非チェックを。
作品解説については他の方に任せたところで、この映画感想文を〆る。
この映画で示された問題を考察するのもいいし、是枝監督の撮る美しい町と秘密基地と人間に感化されるもいい、カンヌ国際映画祭で賞をとった脚本の妙を楽しむのもいい。
人それぞれに考えたり感じたりすることができる、素晴らしい作品だった。
あと数年したら(早速今年書く人もいるだろうが)文学部の論文課題にもなるんだろうなと、この作品に間に合わずに卒業してしまった運命に少し悲しみながらここに社会人の稚拙な感想文を置いてゆく。