芸術に殉死することの尊さについて①
ここ2~3日noteとSNSから私が消えていたのは、とある作品のお手伝いのようなことに集中していて、ずっと起きている間はPCで作業をしており、11時間から12時間ほどお任せいただいた業務を行っていた。
実はこのお話は10月の初旬にいただいていて、いろいろとあったのだがお声がけいただいた企業の方やスケジュールにズレが生じてしまったのでご融通していただいたいつもの制作会社の先生方には感謝しております。
……ここまでが短期間、私が姿を消していた理由になる。
届かない方もいらっしゃると思うが改めて感謝を述べたかった。
ここまでは私の直近の近況だ。
さて、タイトルはnoteに書いた記事の一文から抜粋したものだ。
どうやら、芸術というものは私にとって身近なものだったらしい。
思い返してみれば、どの時期でも私は芸術に触れていたし、身近に優秀な作品をつくるクリエイターが常にいたように思う。
興味ないと思うが、私と文章の話は下記の記事で少し書いたけれど、あまりにも駄文なので読まなくてよろしい代物だ。
私の初めて持っている記憶は、幼稚園の図書室だった。
私の故郷は、恐らく地名をだせばだれもが知っている方は多いだろう歴史的な田舎町なのだが、あまりにも閉鎖的でじめじめとした土地だった。
人間関係も、学校も。
美しいのは夏の色彩だけだった。
幼い頃に飼っていた犬と過ごした思い出と荼毘にふした骨は恋しく思う。
幼稚園のときの記憶を頑張って思い出そうと思う。
私は、友達がいないから、いつもひとりでいた。
たまに、友達に「梅芳ちゃん、遊ぼうよ」って言われて、それが嬉しくて喜々としてその子の家に向かうと幼稚園ではやさしかったはずのその子が困ったように「梅芳ちゃんは遊びに呼んでないよ」と言う。
まあ、至極くだらない理由なのだけれど、ある程度の年齢になって分かったが、私の母が若いという理由だけで、いわゆるママ友の輪に入れなかったのだ。
必然的にそのこどもである私も「ママ友」たちから敬遠されて、よく約束を反故にされたりしたものだ。
何が言いたいかというと私の生まれた土地は、小説や漫画の中の世界のようなド田舎なのである。
当時はまだ20世紀だったけれども、ある程度の文明があった当時にも恐ろしいほど、陰湿な人間関係があり、常に隣人が誰かの動向を観察しているような場所。
でも、都心部で暮らすようになって思うけど、あの町の色だけは美しかった。
幼稚園ではよく海に散歩にでかけた。
たまに亀の死体とかが流れ着いてみんなで騒いだりしたときはショッキングだったけど、私は、この散歩というイベントはわりと好きだったように思う。
ひとりで貝殻を集めて、家に帰ってからママに渡していた。
あと、砂浜でお星さまを見つけたことがあった。
……それは、ヒトデの死体だったのだけれど、幼い私はお星さまだと信じていた。
持ち帰ったらママもお星さまだね、と喜んでくれた記憶がある。
でも、やはりそれは死体だった。
強烈な腐敗臭が家の周囲に立ち込めていて、海ではヒトデを拾ってきてはいけないという禁止令を出されたのがその話のオチだった。
私の人生を俯瞰してみても、私の記憶は、例の嫌いな幼稚園(の図書室)から始まる。
幼稚園というとこどもがのびのびと育つ場所だろう。
しかし、私の通っていた幼稚園は全体的に暗かった。
特に私が独り占めしていた図書室はいっそう暗い場所にあったので、誰も近づきやしない。
乱雑に、でも膨大な本がありとあらゆる棚に詰め込まれていた。
そこでひとりで過ごす時間が唯一好きだったので、私の最初の記憶として残っているのかもしれない。
別段、私は幼い頃、読書が好きなわけではなかった。
年子の妹と違って、どんくさい私は母に喜んでもらう術が分からなかった。
話を聞くと母は幼稚園以前にも膨大な本を私に与えていたようだった。
まだ、言葉など分からない年齢のうちから膨大な絵本を読み聞かされていたとか。
本当に記憶にないし、現在の私は詳しくないのだが1歳だか2歳の頃には与えられた電車の図鑑をひどく気にいっていて、全部記憶していたという。
まだ、忌まわしい田舎に越す前は都心部にいたので、よく妹と一緒に電車を眺めに散歩に行ったと聞いた。
だが、本当に覚えてないし、現在は興味もないので自分のことだとは思えない。
気づいた頃には私にとって本を読むことは呼吸と同じになっていた。
そうするとママが喜んでくれた。
それだけだったように思う。
でも、幼稚園くらいの私はひとりぼっちだったから都合が良かったし、たぶんだけど、ママが喜んでくれることをちゃんと理解してくれたのだろう。
幼稚園では、本を読んで、早くおうちに帰りたいなとずっと願っていた。
家にはよく喋ってみんなに愛される妹がいたし、隣には保育園に通う同い年のリーダー気質のある女の子(姉のようだった)とのんびりとしたテンポで気のあう妹。仲の良い幼馴染の姉妹がいた。
彼女たちと冒険をしたり、おまごごとをする方が私には心が躍った。
幼稚園の頃の私の一番の娯楽は夜に行われた。
寝る前にママが本を読んでくれるのだ。
妹は、すぐに寝てしまうので毎晩、私は、そのときだけママを独占できる。
なにせ、妹が父をひどく毛嫌いするので、私は自然と父や祖母といることが多かったのでこのときが嬉しかった。
どういう経緯か知らないが、当時ベストセラーとなったハリー・ポッターをママは毎晩、一章ずつ読んでくれる。
たぶん、ママが私のためにしてくれたことだからこの本が思い出に残っているのだが、ハリーの冒険はこどもの私にとって、胸が躍るものだったし、魔法のアイテムにはワクワクした。
今思えば、孤立していた私は、ハリーに自分の気持ちを重ねていたのかもしれない。
(後者は今になって思うことだ)
この頃には、まだ映画がやっていなかったので、私はお絵かきのときによく物語から想像したハリー・ポッターの絵を描くことが多かった。
私にとって、母に読み聞かせをしてもらった本といえば、やはり、ハリー・ポッターが浮かぶ。
ハリー・ポッターの読み聞かせは小学校低学年の頃、アズカバンの囚人まで続いた。
とにかく、幼い頃の私は、読む本を探していた。
通っていた幼稚園、図書館の分館、児童館、ありとあらゆるところで絵本や児童書を借りていた。
私はおとぎ話が好きだった。
厳密にはずっと好きだ。
児童館が古くなったから、とおとぎ話の全集をくれたので、それを貪るように読んでいたし、能動的に母に読み聞かせを頼むのもおとぎ話が多かった。
母方の祖母が、泊まりにくると一緒に寝るのが習慣なのだが、いつものように読み聞かせをねだった私に赤ずきんちゃんの話をしてくれた。
そのときの赤ずきんちゃんの話は今もよく覚えている。
私の人生においてグリムだとかアンデルセンのようなおとぎ話の本が折々、登場するのだが、それはまた別の機会に。
不思議な巡りあわせだと感じているが、私がこの5年、ずっと携わらせていただいている作品に「オトギフロンティア」というタイトルがある。
シナリオ協力でキャラクターエピソードを執筆させていただいているのだが、私の商業デビュー作にあたる。
もう7年も続いているタイトルなのであらすじの説明が難しいのだが、星々の失楽園編という長期的にやっていたメインタイトルでは、現実世界で暮らしていた主人公(通称人間さん)が、異世界から来た花の妖精ピュルテ(オリジナルキャラクター)に連れられておとぎ話の住人が暮らす世界(オトギノクニ)を救うという物語だ(かなり省略した)
私はSNSで「オトギフロンティア」のお仕事が好きだと公言しているが、本当に個人の趣味でピンポイントで好きな題材で書いていて楽しいのだ。
この「オトギフロンティア」というタイトルは、実は小ネタがかなり細かい。
ユーザー様がよく仰っているところで言うと原典(元のおとぎ話)のネタをかなり忠実に拾っている。
だから、私はこのタイトルでシナリオを書くときは結構な割合で下調べを行い、原典を大事にするようにしている。
ちなみに諸事情で夏以降クレジットを出していないが、現在進行形で関わっているし、クレジットを伏せて実装されたキャラクターもいるのでご安心してほしい。
本編はかなり、硬派な作品なのだが、私も担当させていただいているキャラクターシナリオに関しては性癖の闇鍋みたいな作品なので、守備範囲の広い人にだけおすすめしておく。
幼少期の私は知るよしもないのだが、こどもの頃、おとぎ話や童話が好きだった私が、おとぎ話を題材とした長寿ブラウザゲームに携わっているめぐりあわせを不思議に思うことがしばしばある。
今は、特に書いていないのだが、私は小説を書くときに起承転結に沿ってしか書けない人間で、コンパクトにまとめるということが苦手なのだ。
本当は、タイトルの話を書きたかったのに、これでは、物語のはじめもはじめ。
プロローグにすら満たない。
結論としていえば、私は元々、特別本が別段好きな人間ではなかった。
本当に、純粋に物語が好きで読書家及び、執筆を行った方には軽蔑されても仕方ないが、やはり何回考えても「ママが喜んでくれる、褒めてくれる」以外に読書を続けるようなモチベーションはなかったのだ。
この記事が続くかは分からないが、私は純粋な芸術家ではないと先に言っておこう。
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