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失ってからはじめて気づくものに価値はない

薄毛になる将来をうっすらとでも予想できる全ての人たちへ捧ぐ。

僕も同様に、将来がほぼ確実に約束されているから。なにも憂うことはない。自然の成り行きに身を任せればいい。

父が抵抗することなく、潔く丸坊主にしたのを僕は見た。その潔さには尊敬を覚える。僕も草木が枯れてきたら全て刈り取ろうと、心の中でそうと決めた。

自然は絶対だ。人間風情が抗えるような代物ではない。下手に暴れると、大変なことになる。現実を受けとめることも時には必要だ。

だが今日の科学の発展はめざましいものがある。世紀の大発明を祈って、毎日を過ごすことにする。僕は研究者ではないのでこればっかりは他力本願にならざるをえない。

科学の発展を身近に感じるとき、僕はいつもあの頃の「ケータイ」のことを思い出す。ボタンを押すことでしか操作できず、カパカパと音を鳴らす開閉式で、今やガラケーと呼ばれるようになったものだ。独自の進化を遂げているので、ガラパゴス諸島からその名を借りて、ガラパゴスケータイ。通称、ガラケー。

もう今や忘れ去られつつあるケータイがいくら独自の進化を遂げていようと、僕の頭上と同列には考えられない。ガラパゴスのように歪になるのはごめんだ。それならば、真っさらな砂漠になるほうがまだ許せる。


とここまでグネグネと回り道を重ねてきたが、僕は言いたい。失ってからはじめて気づくものに価値はないと。

正確には失ってからはじめて気づくもの自体にはというべきか。言葉遊びも大概にしろと怒られるかもしれない。

分かりやすく例えると以下だ。

ある日僕は毛が落ちているのを見つける。落ちている毛は、判断するに疑いなく自分のものだ。これまで僕の一部として意味をなしていたそれは、今や掃除機に吸い取られる運命にあるゴミ、いわば価値のないものに変わってしまった。

分かりにくいか。髪の毛のことになると、どうも僕は冷静さを欠いてしまうようだ。


失ってからはじめて気づくもの、僕の頭からなくなった髪の毛自体に価値はない。気づいてから、どう対処すべきかが重要なのだ。

僕は失ったことをまず真摯に受けとめるよう努める。簡単には受け入れられず、悲しみに明け暮れる日もあるだろう。だが僕はめげない。僕は失ってからはじめて気づいたことで、失う前の心構えを知ることができたから。

髪の毛を大事にするのだ。日頃からのケアを怠らない。

濡れたままの髪をそのままにせずドライヤーをする。
整髪料をつけたままにして寝ない。
リンスを頭皮につけないように心がける、などなど。

日々徹底していたら、あの日々を大事にできたからここまでくることができたと、懐かしく思い出せる日がくるかもしれない。

自分が操ることのできない自然に抗うのではなく、今できることは何かと自分に問いかける。問いかけをおろそかにしてはいけない。


と自分に問うことを忘れた僕は、つい先日髪を染めた。失ってからはじめて気づく黒髪の尊さといったらない。

だが後悔はしていない。

気づいてからどうすればいいのかを僕はもう知っている。

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