耳をすませば
近ごろはイヤホンを付けている人をよく目にするようになった。僕もその一人だ。四六時中とまではいわないけれども、どこかへ出かけるときや、リラックスしたいとき、少し集中したいときはイヤホンをすることが多い。
身の回りのものが基本的にアップル製品なので、今まで付属のイヤホンで事足りていた。だけど有線の絡まりをほどくのに毎回手こずることもあって、思い切ってワイヤレスイヤホンを買うことにした。
数多くあるイヤホンは値段から機能までピンきりだ。少し調べてから、イヤホンを購入した。インナーイヤー型を買ったつもりだったのだが、カナル型だった。詰めが甘い。思い込みって怖いよね。買ったのがイヤホンだったから良かったけれど、これが家電製品とかなら想像しただけで目まいがする。何事も入念にチェックしようと思った。
装着にも慣れ、機能的にも使い心地は申し分なかったので気に入った。気付いたらほぼ毎日付けていることもあった。外でも、家でも、電車の中でも。
そうしていたら、ある日耳が痛くなった。イヤホンの装着頻度のせいだろうか。耳鼻科に行かなければと思うと同時に、イヤホンの装着を控えるようにした。
すると今まで気にもしなかった色んな音が聞こえてくる。
さもお客様が凱旋したといわんばかりのコンビニの開閉音。道路沿いでは、通ることをアピールするような車の走行音と、歩くのを急かすような信号機。電車の中では、電車自体の意外と大きな振動。
なんだかどれも新鮮に感じられた。街の喧騒は近くにあるのに、僕たち一人一人にとってはどこか遠い。
普段生きていて不要な情報は取り込まないように、人間はうまくできているので気にしないのは当然といえば当然なのだ。いちいち辺りの音を拾っているほど、人は暇ではない。
というより、自分の「声」を聞くことに必死なのだ。要は自分のことを考えている。
そういえば、僕もそうだった。ほとんど無意識にイヤホンをするようになっていたけれど、聞いていたのはイヤホンから流れる音楽や、人の声ではなく自分の声だった。
自分のことを考えるのに必死だった。スマホを見ることに夢中だった。そのこと自体は悪いことではない。
ただ人は意外と耳を傾けてはいないことに気付いた。ただ聞こえてくるものを聞き取っているだけだ。何かを聴こうと注意を向けるのに体力を使うのは僕だけではないはずだから。
なので聞きたいとき、聞くべきときに、自分の声で塞がれてしまわないように、ただ流れてくる音に支配されてしまわないように、もう少し耳に優しくあろうかな、なんて思ったり。
残しておいた体力でしっかりと耳をすませば、自分にかけてくれる心優しい忠告や、人の表には出さない素直な気持ちを聞いて汲み取ることができるかもしれない。
そのためにも耳は大事にしなければ。
今日は特に人の声に耳を傾けたわけではないけれど、静寂の騒がしさを実感した。辺りが静かなときは、意外とうるさい。
吹き抜ける風、人の気配、そろそろ重たくなってきたPC、近くを走る救急車。この世に無音はどこにもないみたいだ。人が閑散とした今でも、こんなにもはっきりと聞こえてくるから。
全くの無音ではない静けさも、時には無音の世界へと、つまり眠けを誘う。
昼下がり、目を瞑って横になっていると「千、金を出せぇ」と蛙の声がささやいた。そこは「耳をすませば」から一言ほしかった。
そういえば「耳をすませば」に印象的なセリフってあったかな。よく覚えていない。