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#13 38444と月の光
2020年5月2日19:08 朝から夏のような突き刺す日差しを浴び続けた大地は、まだこの時間でも熱を帯びている。ときおり、生温かく、湿っぽい空気が風に乗って流れてきた。
風が去ると、身体から腐食した木や、枯れた草だけでなく、生臭い血の臭いが鼻腔を刺激した。
野川公園は他に人の姿はなく、スズムシだろうか、虫が草むらのどこかで鳴いている。時折、カサカサ、と葉が擦れる音もする。遠くの方では犬とか猫が声を出しているのも聴こえてくる。僕は原っぱの真ん中で、太腿から足首に伝って固まっている血の筋を、指で擦っていた。
昨日の夜、行くあてもなく歩いたのは覚えている。人影を見つけると、野良猫が選びそうな人気のない路地を選択した。明るく照る街頭があると、避けるように暗闇に身を潜めた。
全く違う道を選ぶこともあれば、同じ道を繰り返し通っていることもあった。同じ道だと思って進んでいると、全く違う道だったこともあった。
でも、どちらでもよかった。僕はただ目的もなく、誰にも見つからずに、歩き続けたかったのだ。それはロマンとか、冒険とかと対極に位置する歩きだ。
そんなふうに無目的に無制限に歩き続けると、距離や時間は、左右の靴を履き違えたみたいに、バランス感覚を失う。
だから僕は最初、ここが野川公園だとわからなかった。誰かに軽井沢だ、と言われるとそうか、と信じたと思う。バリだ、と言われれば、バリか、と口走った。僕にとっては軽井沢もバリも野川公園も違いはなかった。
僕を酷く苦しめたのは、月の光だったことを記憶の片隅から呼び起こす。昨日の月は周囲の星から光を吸収したように強く輝いていて、武蔵野の自然の上に、砕いた宝石をちりばめたみたいな景色をつくっていた。
野川公園に辿り着いた僕は、朦朧とした意識のなか原っぱの中に立っていた。容赦なく注ぐ月光に全身を包まれ、感じたことのない重さを感じた。あまりに重たくて、僕はその場に廃車みたいに圧縮され倒れた。
逃げたくても、絶望的だった。捨てられたペット達みたいに、僕はガス室に送られて、計画的に、工程通りに処分される運命なのだ。
僕はどうにかして仰向けになる。月の姿を凝視するが、あまりに眩しくて目蓋が開かない。目蓋の裏に38444という数字が焼き付けられる。そのまま僕は僕の自我を失ったのだ。
そのあとのことは記憶になかった。猫になっていたのかもしれないし、犬になっていたのかもしれない。原っぱを駆けずり、自由を謳歌していたかもしれない。
僕は足についた血の筋を、唾をつけて擦る。血は刷毛ではいたように、広がる。唾をつけつ、擦る。血は少しづつ溶けて消える。
草むらから一匹の野良猫が寄ってきた。最初は警戒して、僕の周りを2.3度まわっていた。どうしてそう思ったのか僕には理解出来ないが、野良猫は警戒心を解いて、足元に飛び乗り、僕の足を舐めはじめた。
僕は出来るだけ優しく、野良猫の頭を撫でた。不意に前足で頭を掻いた時、首輪の痕が見えた。野良猫は僕の目を覗き込むようにじっくり見つめると、飛び降り、またもといた草むらに消えていった。
今日も、月の明かりで地上が照らされていた。僕は寝転がり、手のひらを月を隠すように広げた。すぐに手には月の温もりが伝わってきた。
しばらく温めたあと、僕はその手をお腹に持っていった。
MOAIの気配を感じとる。近くにいる。
それから僕は目を閉じて、息を吐いて、静かに月の光に溶ける。
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