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本当じゃないあなたも好きよ。

自分がどんな人かが分からない。

分かる部分ももちろんある。例えば、好きなもの。言葉が好き、とか。嵐の二宮くんと、Hey! Say! JUMPの山田涼介さんと、SnowManのラウールさんが好き、とか。宝塚だと花組が好き、とか。好きな色はピンクと白、とか。

でも、例えば好きな食べ物となると、話は別だ。表の回答と裏の回答がある。
私は、人から「好きな食べ物は?」と聞かれたら、「エクレアと苺」と答えている。これを書くと出身地がバレるが、エクレールのエクレアとキルフェボンの苺のタルトが好きだ。(ここまで書いて、自分の好きな食べ物:カスタードクリーム説が浮上している)
でも、世の中に他に好きな食べ物はないのかというとそんなはずはなく、軟骨の唐揚げと、ほうれん草の巣ごもり卵が好きだ。しかし、「好きな食べ物はエクレアなのか唐揚げなのかはっきりしろ!」と迫られたら、ちょっと逃げ出したい。

単語での回答が出来、かつ比較的手軽な食べ物でさえこんな調子なのだから、やれ性格だの属性だの人生観だの、自分のアイデンティティに深く関わり、かつ簡潔には言葉にすることの出来ない事柄に対して、自分で満足のゆく答えを出すことは至難の業だ。悩んだけれど結果は「わからん」のまま、宙ぶらりんの状態で生きる毎日である。
でも人は勝手なもので、「前に言っていたことと違う」「それって本当?」と疑いをかけたり、「そんな人だと思わなかった」と詰ってみたり。これは自分への自戒も込めて、思うことだ。

性格やら属性やら人生観やらを、好きな食べ物くらいの手軽さで扱えはしないだろうか。「前に言っていたことと違う…」「こんな人だっけ?」となることだってある。でもそれってきっと、「好きな食べ物はショートケーキだけれど毎日ショートケーキだと流石に飽きるわ、だから好きな食べ物は焼肉になりました!」と大差ないんだと思う。逆に、当人からすれば紛れもなく「本当の自分」に属する事柄でも、そのときの社会や周囲の状況によってどうしても言えない、ということだってあるわけだし。だったらそれくらいの手軽さ、許してほしい。嘘だから何?途中で変わったから何?他人の好きな食べ物がショートケーキから焼肉に変わったところで、多くの人の人生には何の利益も不利益もないだろうに。

…言葉が荒れました。失礼しました。

正直、「私は人からこう思われていたいです」と書かれた札を皆が首から下げて生活していたらどんなに楽だろう、と思うことがある。そうすれば、人を傷つけなくて済むし、自分も傷つかなくて済む。でも、今度は自分のことが心底嫌いになったり、自分のことが分からなくなったりで消えたくなってしまう瞬間がくるから…やはり、自分について言語化してくれる誰かの存在は必要なんだと思う。そしてその相手は、自分で選びたい。

とはいえ、他者のことを理解するのもまた難しい。高校のとき、友人から「hanaちゃんが受けるのって、○○大?」と聞かれたその○○大が私の志望校に1ミリもかすっていなくて驚いたことがある。でもその人が私のことを理解していなかったとは思わない。人の解像度ってそんなもんだと思う。

でも逆に、大切な人が自分の長所はどこかで悩んでいると、「私にあなたの自己PRを書かせてください!!!面接に行かせろ!!!」と、文才もコミュ力もないのに乗り込んでしまいたくなることがある。ただ、たぶん簡潔に話せないので、おすすめはしません。

結局、その人のことが心底大切に思えたら、それ以外の条件なんて些末なものなのだと思う。椎名林檎様が、「ありあまる富」という曲の中で、「価値は生命に従って付いている」と歌われていたけれど、本当にそう。大切なその人と私との間に、もしかしたら決定的に価値観が合わない瞬間があるのかもしれないけれど…でもその人と私が、無闇に価値観を研ぎ合って喧嘩することはないだろうから。喧嘩しないという安心感が得られたら、少しずつ自分の底のほうの話をすることが出来るんだろう。

ここ1週間くらい、私はまあまあそこそこ病んでいた。でもその悩みの原因は、他の人にどうにか出来るものでもなく、他の人に言えるものでもなく。最近新たに生まれた某SNSに言葉を溶かせば何とかなるかしらと思いながら、結局何ともなっていない毎日が続いていた。
そんなとき、大学の友人から「時間あったらお話しましょう」という旨のお誘いをいただいた。生存確認です、と直接言わないのが彼女の優しさである。その優しい彼女に負担をかけてしまった。嗚呼、何ということ。
そんな罪悪感を纏いつつ、それでも嬉々としてお気に入りのヘアーカフつけて外に出てしまった私であった。我ながら勝手だなぁと思う。でも、時間にしたらほんの数時間のその「お話」で、その人は確実に私の命を救ってくれた。ぶっちゃけ半分以上は自担についての話をしていたし、特に状況が改善したわけではないけれど。でも、大学の友人に対して、どうにも掴めない自分自身に関する話をここまで出来たのは初めてかもしれなかった。きっと、私がどんな選択をしようと、この人は私のことを否定しないだろう、という少し傲慢にさえ思える確信が持てたことが、私の心を軽くしてくれたのだと思う。
そうやって少しずつ関係性を深めていく過程があれば、人は死にそうな夜を何とか越えていけるのかもしれない。得体のしれない「本当の自分」とやらを知っていくには自分は当事者すぎて、深刻すぎるから。だから、せめて他人である私くらいは、その人の全てを大切に出来る人でありたいと願う。

私、本当のあなたも好きだし、本当じゃないあなたも好きよ。
だから、もしあなたが自分ごと終わらせたくなった日には、あなたをこの世に繋ぎ止めるために言葉を紡がせてください。対処療法にしかならないんだとしたら、一生、その対処療法を続けてみましょうよ。私もそうだから。

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