透き通っていて、鮮やか。
安藤美保さんという歌人がいる。
私が彼女について初めて知ったのは、おそらく高校生のときだ。
古文の授業の冒頭、先生が紹介してくださった本が、美保さんの歌集『水の粒子』だった。
表題作になった美保さんの歌を口にしたときの、先生の﨟長けたお声を、今でもはっきりと覚えている。
・・・美保さんは、どのような世界を見ていたのだろう?
無性に気になり、脳裏から離れなくなったその歌集を求め、高校生の私は図書館と書店を探し回った。そのまま、気づけば大学生になってしまった。
しかし、先日。
大学の図書館の一隅に、その歌集はあった。
日々の質感。
人の心の内を表すのに、三十一文字は少なすぎる。
昔の私はそう思っていた。
しかし、その歌集の中には、美保さんの生きた日々の質感が、心の繊細な揺れ動きが、鮮やかに流れていた。
三十一文字に濃縮された、友人との何気ない会話。家族との時間。古典と向き合う日々。
美保さんの人生と私の人生は、大きく異なるものだ。出身地も、年齢も、学生時代の部活も違う。
けれど、彼女の歌に触れるとき、私は自らの日々に思いを馳せる。
セブンイレブンのサラダを口に放り込みながら、将来について呟いた友人の横顔。
故郷を発った日の朝靄。
東京の夜の、どこか近寄りがたい美しさ。
その夜の内側で、花がほころぶように笑う女子大生。
口角を上げて!と思いつつ、ふと遠い目をしてしまった日のこと。
とてつもなく楽しかったり、苦しかったり、切なかったりするけれど。
世界はこんなにも透き通っていて、きらきらしたものに溢れている。
言葉を紡ぐこと。
人の心の内を表すのには、いったいどれほどの言葉が必要なのだろう。
「えも言われぬ」という言葉があるように、「言葉よりも大切なもの」という歌があるように、心が動いたとき、あえて言葉を紡がないひとがいる。
その一方で、美保さんのように、限られた字数の中に、心の最たる部分を表せるひともいる。
そして今の私は、とにかく取り留めなく、心の内を綴ってしまうひとらしい。(この時点で、既に800字書いている!)それでも、心から言葉に器を変えるとき、私はいつも何かを零してしまうのだ。
ひとりよがりの、叶わない夢かもしれないけれど。
でも、いつか。
心の内を、愛おしいものを、零さず言葉にできるひとになりたい。
透き通っていて鮮やかな、私たちの日々のすべてを。