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何のための「歴史」の授業?
歴史の教員を目指してから向き合い続けている問い。歴史に携わる以上、考え続けるべき「人生の命題」とも言えます。
歴史は過去を扱う学問です。
「過去を学んでなにになるの?」
と、考え続けてきました。
一応の自分の答えは持っているけれど、なんとなく腑に落ちないまま、就職活動を終えた自分。
自分の答えを「これが自分の考えだ」と言い聞かせて教壇に立ちはじめました。
年々、腑に落ちないモヤモヤが募ってきて、授業で生徒が「なんとなくノッてない」ように思えて、
「歴史教えるの向いてないかもなぁ…」
と思っていました。
でも最近、ある人が、1つ私のモヤモヤを言語化してくれました。
「人の"声"に敏感でありたいな」
そう。
それ。
「勝者」や「強い者」の視点に立ってしまっている歴史を教えている自分が嫌なんだ、と気づきました。
「声」が拾えていない。
過去には、名前の残らない人がたくさんいて、でもその人たちにも歴史はあって。
それに気が付けるような授業ができていない自分が嫌。
その人はまた
「声にも色々あって、その人の声は本心かもしれないし、心の声が別にあるかもしれない。いろんな声に触れたい。」
と言いました。
歴史もそうです。
実際の行動と、その人の思いは実は乖離していることも、後世に作られたイメージなどもあるかもしれません。
戦争が勃発した時、「戦争賛成」と声を上げた民衆の中には、「そうせざるを得なかった人」もいるし、「本心ではそう思っていなかった」ということもあり得ます。
教科書に描かれているような、一般的な「歴史」
をなぞるだけの授業、してるなぁ。
そりゃ、生徒もワクワクしないし、なんとなく授業が終わるのを待つよな。
「声」に着目した彼女の言葉が、すごく刺さりました。歴史の授業とは文脈の違う話の中ででた話題でしたが、とても心に残りました。
さっそく、「声」に着目した問いを、生徒に投げてみました。
まだ少しですが、手応えを感じたり、自分の心持ちが変わった気がしています。
今年度の残りの授業、「声」にフォーカスして、授業を作ってみたいと思っています。
この言葉を受け取ってから、まだ新鮮なうちに、書き留めておきたいと思いました。
また明日も、頑張ってみます。