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今目の前にあるものに集中する 映画『アルピニスト』純粋な生き方

最近、「スマホ断食」のような言葉をネット上でよく見かけるような気がする。SNSを一定期間、見ない。アンインストールして繋がらない。
そういえば、SNSで有名になった安藤美冬さんの『つながらない練習』という本もあったな。

私は自分自身がSNSで影響を持つほどにまでなったことはないが、SNSを見始めると、30分くらいはゆうに経つ、あるいはネットサーフィンで半日とか終日を過ごしたことがあるからよくわかる。
インフルエンサーになることも、フォロワーとして彼らを見続けることも、一緒とは言わないが、根底では非常に近いものなのだと思う。

だが、自分が実際に彼らが言うような「スマホ断食」をやってみて、果たして有効なのか、正直よくわからない。私自身がそもそも人から連絡が来ることも少ないし、仕事はすぐに連絡しないといけない状況ではないから、あまり効果を発揮できていないのかもしれない。
ただ、友人が時間を決めてスマホを触らないということをしているのを見て、なんとなく真似をしている。確かにちょっと楽になるようなことはあるが、おそらくこれらの「運動」が目指そうとしている目的を達成できていないような気がする。

映画『アルピニスト』を見たとき、なぜこの映画が世に存在しているのか、話題になったのか、監督がこの現代に危険な場所での撮影も含めて敢行したのか、そういったことがよくわかるような気がした。

ちなみに映画の主人公は、スマホ断食というどころか、スマホを持っていない。映画撮影を始めてから、連絡のためにスマホを持つようになったが、連絡が取れないこともままあったようだ。決して人のことを無視するような性格ではなかったものの。

1.ただ目の前にあるものに集中する

なぜSNSを遮断するのか?そういったことをやろうということを思いついて、多くの人が意識し始めたのか。
それはスマホやネットの情報が、私たちの本来の「目の前」の感覚を忘れさせているからだろう。

スマホ断食をしたからといって、私が効果を感じられないのは、本来のこういった感覚を取り戻せていないからだ。「スマホ断食」運動が目指しているのは、別にスマホを悪いもの、避けるべきものとして敵対視しているのではなく、スマホをきっかけに失われてしまっている私たちの感覚を取り戻すということなのだと思う。

こういったことのヒントが映画アルピニストから、感じたような気がする。

主人公のマークはSNSどころか、スマホすらほとんど持たない。
カナダで生まれ、幼いころから山に親しんできた。高校卒業後は、別の地に移り住んで、ロッククライミングに熱中する。
撮影を始めたときは、23歳。
カメラに慣れておらず、はにかむような笑顔がまぶしい若者といった感じだった。

彼は、SNSをやらないだろうし、確かにネットで山の記録を書き込んだところで、あまり注目されるようなタイプではなさそうだ。
地味な青年だった。
映画で言うように「かわいい彼女」も出てきたけれど、二人とも自然を愛する若者で、ハデさがなかった。

山に登るマークはただひたすら目の前にある状況に集中していた。崖のような岩に手を掛け、ただただ上へ登っていく。時には方向転換したり、体勢を変えないといけないようなことがあったりするが、岩山も雪山も、見ている分には同じ動作の繰り返しが続く。こんなことをひたすら繰り返して、断崖絶壁の岩山を登っていくのだ。

ロッククライミングの映像を見続けたのは初めてで、こういう感じなのかと思った。同じような動作を繰り返してひたすら登っていくけれど、その一歩一歩が死と隣り合わせ。命綱をほとんど使わず、一人で登る彼は自分の感覚と動きがすべて。
だからこそ、自分の動き、感覚に全身全霊集中して、山を登る。それを楽しむかのように、リラックスして登り続ける。

死んでしまうかもしれないロッククライミングが「娯楽」だなんて、なんだかおかしいなと思ったけれど、なるほど人間は死と隣り合わせという感覚を持ててこそ、生きている感覚を取り戻すのかもしれない。究極の目の前にあるものへの集中。それは一瞬一瞬の行為・考え・動きが、死ではなく、生を選んでいる自分を意識させる。

実際、私たちは毎日、何かの命をいただいて生きている。私が生きていることへの引き換えに、例えばお米や小麦、豚は自身の生をストップさせる。彼らの死をもって、私は生きていることができているのだ。

自分の生も、それと引き換えになっている他の生き物の死も、普段あまり意識しないまま、生活している。自分が一瞬、一瞬、生きているということをちゃんと選ばないまま、生きていることにどこか変な感じもする。

私たちには社会というものがあって、便利な反面、自分が生きていること、生きようとしている選択をしていることを忘れさせてしまう。

私たちが社会を持たなかった時代には、命がけで食料を得て、生きてきた。

目の前にあることに集中しているとき、確かにマークが言うように、「表面的なことが気にならなくなる」。
そして、その集中していることが命がけの行為であればなおのこと、生きている実感を感じられるような気がする。

それは、スマホやSNSといった世界とは違うところにあるような気がする。

「スマホ断食」は確かに、デトックスのようにそれまであったわずらわしさから解放してくれるような気がする。しかし、私は思う。
私たちにはこういった解放が必要ではあるものの、本当に必要なのは、そもそもスマホやSNSの存在さえ忘れさせてくれるほど集中させてくれるものなのだと思う。
ときに自分の命と引き換えになるほどのものと。

その先に死がみえる、けれど、私は生きることを選ぶ。
そのくらいに集中して取り組むこと。

私はマークほど危険なことを成し遂げることはできないけれど、ちょっとしたサバイバル体験として、登山や水泳を時々する。山は、どんなに低くてすぐに登れるものであれ、油断ができない。

でも一番いいのは、翌日も登らないといけない状況だと思う。行って帰れる登山は、いつも思うが、効果が薄い。
以前、鯖街道に行ったとき、次の日もこうして歩き続けないといけないと思うと、どの一歩も体力を無駄にできないなと思い、歩き方、足の動き、姿勢に意識が向いた。自然に姿勢がよくなり、少しでも無駄な動きをしないようになった。
そうすると、私が普段やっている身体の動かし方は、どれも無駄ばかりだった。すぐに休めるとなると、ちょっとくらい無駄な動きをしても問題ない。今の猫背や体力のなさは、すべてそういう毎日から来ているものだと思った。

すべて楽にできてしまう環境は、身体がどんどんなまっていってしまう。こういうことが慢性的に続いて、運動不足になり、病気になるのだろう。身体を目覚めさせて、心が覚醒できるようなきっかけをこの便利な社会にいきながらなんとか持ち続けたい。

2.現代において誰もが傷つきやすい存在なのかもしれない

映画では、マークが途中、音信不通になってしまう「事件」が起きた。
マークがクライマーとして、映画撮影を受けることになり、正式にスポンサーも付いた。そのための撮影で大きくストレスを受けて、行方をくらましてしまったのである。

マークは彼女や知人とともに、山に登っていた。彼らのSNSに登場していたことで行方がわかった。

この「事件」をみていたとき、マークはひょうひょうとしているように見えて、実はすごく傷つきやすくて、感受性が人一倍強いのではないかと思った。
だからこそ、スマホもSNSもやらない。
ある意味で、スマホやSNSをやらないということは、こういった傷つきやすさからの反動なのかなとも思う。私自身もHSPで、そうだからよくわかる。

でも、傷つきやすいとか感受性が強いとか、敏感だとか、本当にそういう人っているのか。というよりか、SNSで気軽に個人の情報にアクセスできて、気軽によくも悪くもその人に触れてしまえるこの時代は、誰もが傷つきやすくなってしまえているのではないだろうか。

インターネットでしか知らないような人に傷つけられることはあまりないかもしれない。けれど、自分に近しい人たちがSNSにつながることもできて、なおかつ自分の個人的な部分をさらすこともできてしまうインターネットは、いとも簡単に傷つきやすい個人をつくってしまえるのではないだろうか。

「自分の感受性くらい自分で守れよ」という有名な言葉があるが、例えば私自身が自分の個人的な発信を自分で鍵をかけることはできても、でもやはりどこかで傷つきやすい部分はなくせないのかもしれない。
これがインターネット時代なのだと思う。だからこそ、人と人とはつながることもある。

3.人はもともと人からどう見られるか、気になる。ネット上のやり取りでは、より気になる

心や感情というものは確実に存在している。心は、傷ついたり、怒ったり、忙しい。実体がないといえば、そうだけど、日々こういうものに動かされて、実際に動いている。

でも、これら実体がないものに振り回されて、やろうと思っていたことができなかったり、大切な人との関係、大事なことがおろそかになってしまったらどうだろう。

映画では、マークの母が「誰もが冒険したいという心を持っているのに、できない。マークはそこが人と違った」と話していた。

でもマークだって、いやマークは場合によっては、人一倍傷つきやすく、動かされやすい特性もあった。
すでに書いたように、マークがスマホを持たなかったのも、傷つきやすかったからかもしれない。

だけど、それはマークからすると、「表面的」なことにすぎない。

自分が本当にやりたい山に登ること、クライミング以外のことは表面的なことに過ぎない。
どうしても気にしてしまうようであれば、そこから離れてしまえばいい。本当に大事なことは何か?
本当に自分がやりたいこと、集中したいことは何なのか?
自分が心からリラックスできて楽しいことは何なのか?
本当は、人生で私たちがやるべきことはこれらのことなのだと思う。

人それぞれ、本当にやるべきことがある。そこに集中する。


マークみたいになかなか集中できない私だけど、仕事を一生懸命やりながら、人と楽しみながら、どこかで本当にやりたいことなのか?問いかけながら、本当に集中できること、熱中してしまうことに私の人生を捧げていきたいと思う。

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