時を刻む音 ~ヤンママって強いんだね~(エッセイ)
田舎のおばあちゃんが寒い朝に手をこすり合わせながら暖房に火を入れるように、アルコール消毒で潤した両手をこすり合わせながら、私は税務署のドアを開けた。
目に飛び込んできたフロアの人混みに嫌気がさした。
とぐろを巻いた蛇のように、受付を待つ人がうねうねと並んでいる。
私はすこし距離を置いて最後尾に並んだ。全部で30人くらいだろうか、みんなマスクをしていた。
やがて入口とは反対側の奥から係員の誘導の元、一人ひとり隣の部屋へ消えていった。
一歩進んでは止まり、一歩進んでは人の頭越しに部屋の奥を眺め、マスクの中にため息を吐いた。
ようやく最初のヘアピンカーブを曲がった。
こっほん!
次の列に並ぶ5,6人前の女性が咳をして、こちらを向いた。
おなかで抱えたベルト式の抱っこひもの先端から、あかちゃんの頭がのぞいていた。
二十代前半だろうか、彼女の髪はカーキに近いアッシュグレーのショートヘアでかなり目立っていた。
まるで吹きさらしの風の中にいるように、彼女のショートヘアの顔回りはボサボサしていてまとまり感がない。エア感とともに脱力感を醸し出す最近の髪型のようだ。
――これが俗にいうヤンママなのか。
彼女の隣には髪の色こそダークブラウンだが、おなじようにあかちゃんを前に抱っこしてマスクをかけたママ友がいた。
彼女らは前を向いて何やらしゃべりだす。
こっほん!
アッシュグレーのヤンママが今度は渇いた咳をした。
――マスクをしているとはいえ、対面のあかちゃんは大丈夫だろうか。
動きがピタッと止まる。時計の秒針が動く音だけが聞こえた。
こっほん!
咳が沈黙を破った。
どうやら音がするのはヤンママの咳とおしゃべりだけのようだ。
アッシュグレーのヤンママは30秒に一回くらいの間隔で咳を繰り返した。
こっほん、こっほん!
部屋の奥を向いてヤンママがまた咳をすると、ちょうど前の列に並んでいる老夫婦の旦那さんらしき人が後ろを向いた。こざっぱりして温厚そうな顔から、彼の歳は七十歳代くらいだろうか。
彼が前を向き直すと、ヤンママたちがまたしゃべりだした。
ゆっくり列が進み、またヤンママの前には老夫婦が立ち止まった。
こっほん!
相変わらず、アッシュグレーのヤンママが咳をする。
前にいた老夫婦の旦那さんらしき人が、また後ろを振り向いた。
眉間にしわを寄せている。
困ったやつだなあ、というふうにヤンママを見ては、また前に向き直った。
時計の音が聞こえる。
列が進み、今度はヤンママと老夫婦は少し離れた。
こっほん、こっほん!
今度は前方にいた老夫婦以外の人たちも何人か後ろを振り向いた。
この時期、みんな新型コロナウイルスには敏感だ。
しかしヤンママは臆することもなく、顔を微動だにしない。
マスクの中で咳してんだ! なにが悪い!
彼女のうしろ姿から、私はそう言っているように感じた。
――いや、そうだとしてもこの時期に咳の連発はまずいだろ。
時計の秒針が何事もなかったかのように時を刻む。
蛇がゆっくりとぐろを巻いて這うように、列が進んだ。すると、またヤンママの前に老夫婦たちがやってきた。
こっほん、こっほん!
老夫婦の旦那さんが勢いよく振り返った。
鬼のような形相をして、だが顔をのけぞらしてヤンママを睨んだ。
この旦那さんの怒りはもっともだ。
だがこの旦那さんは、並んでいるわれわれの中で唯一マスクをしていない人だった。
――オッサンもオッサンだな。この期に及んでマスクしてないなんて。
そんな私の思いと重なったのか、ヤンママは悪びれるそぶりも見せず前を向いていた。
それにしてもヤンママはマスクをしているとはいえ、顔を背けるなり、顔を腕で覆い隠すなりの周囲への配慮はあってもいい。だが、このヤンママは配慮もへったくれもなかった。
――母は強し、とはこのことか。ちょっと違うか?
列が進む。またヤンママの前にちょうどオッサンの頭がきた。
こっほん、こっほん!
なんだか、わざと前のオッサンのハゲかかった頭に向かって咳をしているようだった。
オッサンがまた鬼の形相で振り返るが、ヤンママは「別に」という態度だ。上半身引き気味のオッサンに対し、ヤンママはなにも恐れていない。
マスクをしていないオッサンが怒鳴り散らしでもしないか、冷や冷やした。
オッサンは最後の一線は踏みとどまってくれた。
老夫婦は最前列になり、係員に連れられて隣の部屋へ消えていった。
時計の音がなんだか小さく聞こえた。