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5月11日の授業参観記録2

同じくYさんからのふりかえりを本人の許可を得て、掲載します。
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1「教師が考えさせたい問い」と「生徒が考えたい問い」のズレ

一時間目に参観した社会の授業で今回先生が考えさせたかった問いは「民主主義とは何か、危険性はないか」「なぜ戦争が起こるのか、どうすれば防げるのか」でした。「ヒトラーも民主主義によって選ばれている」「少数意見が無視されることはないのか」といった問いは私も非常に興味を惹かれるものでした。また、授業で用いられた、先生のイラストによるスライドも非常にわかりやすく、生徒がその後の話し合いをしやすいよう知識事項をまとめてあったと思いました。 しかし振り返りでもあったように、社会が大好きな生徒はこの問いに没入して考えていた一方、問いに難しさを感じている生徒やテストで点が取れればいいと感じている生徒にとっては興味が持てていませんでした。振り返りでの「教師が考えさせたい問いが必ずしも生徒にとってフィットするとは限らない」という先生のジレンマが特に印象に残っています。「生徒からの問い」と「教師が考えさせたい問い」という、授業を考える上でどちらも重要でありながら、しばしば対立してしまう問題とつながっていると考えました。今回の授業はどちらかといえば教科書で設定されているカリキュラムを優先した授業であったと思いますが、そもそも先生の授業では、生徒の問出しと探求の時間を大切にされていると伺っていました。また、レゴや粘土を使って考える授業もあると聞きました。それだけ先生は普段から「生徒が考えたい問い」「生徒が考えたくなる活動」を大切にされているのだと考えています。 私は『学び合い』の授業をいくつか参観したことがありますが、それらの授業で生徒が解決しようとしている問いは一見すると「価値」がない問いであるように見えます。しかし、生徒にとっては価値のある問いになっています。だからこそ、「話し合いましょう」「探求しましょう」ということを言わずとも生徒たちはいきいきと活動に取り組みます。それらは話し合いや探求活動をテーマとして公開している授業以上に、いとも簡単に、豊かに話し合い、活動をしているほどです。子どもは取り組みたいことだからこそ全力で取り組むことができるということを生徒の事実から学ぶことができました。 一方で「~について考える必要はないのか」「生徒にとって今は関心がなくとも、目を開かせる必要があるはずだ」という意見もありうるかと思います。今私はこの二つの問題を二元論でしか捉えることしかできません。しかしこれらの問題は対極の立場として捉えるのではなく、複数の問題を複合したものだと考えます。「生徒が考えたい問いと教師が考えさせたい問いが重なることは起こりえないのか」「教師が考えさせたい問いによってしか生徒の関心は広がらないのか」「生徒が問を探求している間、教師が果たす役割はなにか」といった疑問を更に掘り下げていきたいです。

2哲学対話と他教科のつながり

道徳の時間に行われた哲学対話では「幸せとは?」について皆が納得できる定義を班で作りました。生徒の意見として「平凡な生活が送れること」「皆が幸せと考えることは違う」「休職で~~がでなかったとき」といった様々な意見があがっていました。 この哲学対話は生徒の「幸せ」についての素朴概念が発散されているところが興味深かったです。文学の授業で同じように「幸せ」という主題を考える場面や、社会科の授業で「自由」や「権利」といったものを考える場合、なかなか今回の哲学対話の授業のように素朴概念が発散されないような気がしています。 このような現象は先生の学級だからこそ可能だ、という見方もできるかもしれません。社会の授業の振り返りの際、先生が「このクラスはまだ対話が上手にできない」ということをおっしゃっていたように、先生の学級は対話の力が鍛えられているのかもしれません。 しかし、各教科の授業では生徒自身の素朴概念を安心して発散できる場が少ないというのも事実のように感じます。今回の道徳の授業のように1時間まるまる使って発散できる機会を他教科で設定することは難しいと思います。哲学対話で発散したことを他教科でも活かして生徒の話し合いをより活性化させるという、授業づくりのアイデアが一つ増えました --------------------

とても丁寧なフィードバックをありがとうございます。感謝しかありません。 あとになって思うことは、キーワードで表すと「バランス」と「生徒を信じているかどうか」という言葉です。 私本来の願いは、全てプロジェクト学習形式中心で、探究しながら子どもたちが学ぶことです。子どもたちの問いから、子どもたちが学んでいって欲しいし、子どもたちにはそのような力があると思います。以前1学期丸々をそのような授業ばかりにしたところ、講義型の授業もしてほしいという生徒の不安からの要望が殺到したことがありました。 そのバランスをとりながら、生徒の活動の時間をとっていくには、どうしたらいいか?どう探究的な学習を続けていくこととのバランスをとったらいいか?ということで、ひとまずバランスをとる講義型のタイプをしたら、あの1時間目の授業のようになりました。 しかし、子どもたちが立てた問いに比べると、教師が立てた問いには、学びに向かう勢いが圧倒的に違いますね。それは子どもか立てた方がいいなぁと思います。 生徒が持っている問いに対して、教師としてどう寄り添っていくかは、一緒に探究していく仲間、一緒に面白がれる仲間、探究に迷ったり苦しんだりしているときに一緒に走れる伴走者、のようなイメージがあります。ライティングワークショップなどの実践がやはり参考になるなぁと実感しています。 社会の時間でも、哲学対話をやってみて、教科の力で、子どもたちの力を引き出していきたいなぁと思います。生徒の力をどこまで信じて任せられるのかも、大事だと思います。そういう姿勢がまだまだ足りないし、学年や学校全体で、そういう雰囲気や取り組みをしていきたいものです

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