水至清則無魚、水至塩素則死魚
水至清則無魚、人至察則無徒(『孔子家語』)
水が清らかになれば、魚はすまない。
あまりに清廉潔白な人は却って人が寄ってこない。
つまり、あまりにも水が綺麗だと、全てが晒されて、見透かされてしまい、隠れることも、休むこともできず、ただただいる方が息苦しくなると言うことだと俺は思う。
また後半の人に対する応用の話では、個人の清廉潔白さに焦点を当てているが、
水と言う環境的な単語で例えてある以上、俺は社会のことを例えていると考える方がすっきりする。
つまり、社会があまりにも道徳的で誰も間違わなくなってしまえば、自分の間違いが目立ってしまい、自尊心が成り立たなくなってしまうことになる。。。まあ、理屈上はそうだが、現実にはそんな社会は存在し得まい。
それもあるだろうが、そうではなく、そうやって他人の目が自然と入ってきやすくなることで、監視される息苦しい情景が描写されていると俺は捉えている。
つまり、道徳的要請が厳しい社会は生きづらいと言うことだ。
それはそうだろう。
今の世の中、マスクをしなければごちゃごちゃ言われ、しても素材で言われ、着け方で言われ、と馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
だが彼等は、無邪気にもそう言う正しく綺麗な社会を望んでいるようだ。
綺麗さを望むあまり、前のめりに色んなものを撤去していく。それまで我々に酸素を提供してくれていただろう植物達も、汚い、目障り等々様々な理由をつけ撤去していく。終いには雑菌を忌み嫌うあまり、カルキまでぶちまける有様。
こうやって綺麗さを求めるあまり、逆に多様性もなくなり、弊害ばかりが進められ、到底我々が住めない環境が作られるのだろう。もっと言えば、酸欠、窒息死するだろう。
彼等を野放しにしてはいけない。
彼等は、我々が生存し得ない環境を求める。
それを綺麗で美しく正しい世界と信じるカルトにより。
俺はこれまでも繰り返し述べてきたが、道徳を他人を批判する為に用いることを批判してきた。
人間、誰でも過失や欠点くらいある。そしてそれは避けられない。それくらい目を瞑るのがちょうどいい。失敗は成功のもとと言うように、失敗とはどうやれば、どうなれば失敗するのかと言う知識、経験の蓄積に他ならない。その点、失敗した経験のない人間は脆いし、失敗を認めない人間は伸びしろが無い。
そしてそう言う人間は不寛容になる。不寛容になれば本人や周りの選択肢は限られ、より困窮するだろう。
そしてその困窮は困窮を招き、社会が自縄自縛に陥り、窒息する。
大衆的、奴隷的道徳世界の限界はこうやって簡単に訪れる。
我々は豊かな水を蓄え、縦横無尽に泳ぎまわろう。
自らカルキまみれになって死ぬような人生、社会なんてさよならしよう。