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野ブタ。をプロデュース 感想文 Produce01

はじめに

私の人生最推しにして、人生観にも影響を与え、物語の読み方を教わった作品の一つ。それがドラマ「野ブタ。をプロデュース」。
その感想文を書いていこうかと思います。昔観たという人にも、最近観たという人にも、私も大好きですという人にも、なにか感じて頂けたらな、と思います。
原作は未読。色々思い出そうとシナリオブックを見ながら書いてるので文章がとっ散らかってます。本編見直してから書き始めてますが記憶違いもあると思います…。

この世の全ては

オープニング。高らかなサントラと共に自転車を担ぎ上げ、そこからダッシュ、作業員をすり抜け走る修二の絵はアクションがあって正しく掴みの画って感じ。そして柳の木にタッチというルーティンの始まりから始まる修二くんのモノローグ。
後のシーンで描かれるように普段あんなに人目を気にしてる癖に、作業員さん達の目を顧みないという一見矛盾した行為。修二くんの中にある「自分だけがわかっていればいい」事の体現であり、柳の木がその象徴となっている。
修二くんは、それを他に誰にもわかってもらう気もない。しかし時には他の誰の存在も顧みずにそれを大事にしている(或いはできる)という描写になっているという訳だ。

「この世の全てはゲームだ」から始まる修二くんの闇。周りの人間すべて(先生すらも)子供に見えるという彼の冷めた人生観。「ゲーム」と称するのはやや中二病的でもあるが、年相応ではある。
腹黒い、と表現してしまいそうになるが、自身を押し殺し付き合いを続けるというのは大人でもやってるし、放映当時もこの記事を書いてる今現在も普遍的なものだと思う。悪どく描いているが、誰しも共感してしまう部分だ。

これらは全て「わかってくれる誰かなんて居ない」という思いであり、その裏には「居るわけがない」という諦めが潜んでいる。「信じてくれる誰かが居ればいい」というドラマ全体を通して描かれる事の一つが、すでに顔を見せているオープニングなのだ。

担任の教師が授業中にズボンを直している回数のカウントとか、死ぬほど下らないが、学生という期間を過ごした事のある人間にとってはそれぞれにこういった経験は何かしらあると思う。声とか仕草に特徴のある先生がいて、それをモノマネするのが流行る、とか。それらは全部、学校が世界の大半である学生にとっては立派なエンターテイメントの一つであって、こういった描写の生々しさが、このドラマの説得力に繋がる部分になっている。

オープニングですでにモノローグ芸をものにしている亀梨和也。岩本監督の明暗演出も実に冴え渡る。
後半登場する猿の手のシーン等、この回を始めとしてこのドラマシリーズは特に画面の明度や色調、照明に注目してみると特色があって面白い。

神は死んだ

そこへひらひらと降りてくる天敵・草野彰。
ニーチェの「神は死んだ」をいきなり引用してくるが、これもあからさまに本編の示唆だと思う。
倫理も世界史も真面目に勉強してこなかった筆者なのでネット検索が参考ですが、この言葉は簡単に解釈すると、「神」という絶対的な指針が無くなった=固まった価値観は無くなった。という意味だと思うのですが、
まさしくこれから描かれていくのは、修二、彰、野ブタの三人のそれまでの価値観の崩壊と、再生なんですね。
それを最初に修二に伝えもたらすのが、言動が規格外でまさに価値観という言葉の外に居るかのような振る舞いをしている草野彰という。
彰のセリフをそのまま言うようだが、「皆がそうしてるから」という理由付けもあるだろうけど、ここまで素直に悪態をつけるのは彰に対してだけだったりする。
「建て替えた金返して」すら言えないからな修二くんは。
修二くんは、自分が"ちょっとクールで面倒見のいい桐谷修二くん"で居られなくなる相手が嫌いなのだ。

今となっては有名な?話だが、草野彰のキャラクター付けは山下智久の反抗期から来るアドリブから始まったもので、当初は優等生なキャラの予定だったとか。
それを裏付けるように、シナリオブック上では「だっちゃ」「なのよん」というフザけた語尾や口調は存在しない。
単なる反抗心からキャラクターが変わってしまったというのは信じられない出来事ではあるが、今となってはこれ以外草野彰というキャラクターを考えられないし、それでもドラマはヒットしたのだから、ものづくりや制作というのは本当にわからないものだなあと思うエピソードである。
前述のように(筆者の解釈ではあるが)物語として辻褄が合ってしまうのも面白いところである。
もっと言えば、草野彰なるキャラクターは原作本においては存在しない、オリジナルキャラクターである。
原作にないキャラが主役級で登場して、しかもそれをジャニーズのアイドルが演じる…と書くと、典型的な地雷臭を感じてしまう文章になるのだが…。

柳は死んだ

綺麗さっぱりなくなった柳の木。冒頭の工事はそういう事だったのか。
そこへ現れる柳の精。この時点では名前も名乗らない。
修二くんにとって一日の始まりのルーティンであり心の拠り所だった柳の木だが、彼女にとっては良さそうな死に場所だった、と。物の見え方、価値観の違いをしれっと表している部分だったりするが、それでも二人は同じ場所に惹かれ合って集まった運命的なシーン。
二人にとってのそれぞれの価値観の象徴が抜き取られ、同時に、新しい価値観が生まれる存在と出会う、という物語の始まりを表したシーンでもある。
神は死んだならぬ、柳は死んだのだ。(死んでないけど)

放送当時中学生だった筆者は、学校内でも流行っていた本ドラマに対して、二人のジャニーズアイドルに引っ込み思案な女の子がチヤホヤされるだけのドラマなのだろう、アイドルが主演っていうのはそういう事だ、ぐらいの偏見を持っていた。
実際に視聴したのは高校生になってからだった。偏見は完全に覆り払拭された。自分は悲しいほど愚かな認識を持っていたと気づかされた。このドラマを視聴した事は私にとって、まさに「神は死んだ」ような出来事だった。

転校生

漫談を通じてゴーヨク堂というローカルネタで盛り上がる生徒達の会話。
くだらんなーと思ってしまうが、テレビでワイドショーを見て、芸能人のスキャンダルとかに知った風な口であーだこーだ言ってるのとそんなに変わらないと思う。学校にある風景というのは、多くの場合社会の縮図だと思う。

一見風貌で客を選り好みしているようなゴーヨク堂というのは今の表現ではギリギリだったりするかな…?
どんな本屋だよ、しかも清志郎かよ、というツッコミどころに溢れていてメチャクチャ面白く、前述のような皮肉も込めつつ、上原まり子という唯一無二の存在をしれっと描き、それが転校生へのあらぬ期待感を煽ることにも繋がっていく…。(しかもここから既にまり子、修二と野ブタの対比が始まっている)という狭い世界で起こる伝言ゲームを見事なカットインと会話劇で持って瞬時に繰り広げていく。すごく無駄がなくすごく面白い編集だと思う。「矢田亜希子」という例えは令和5年現在でもまだ通じる。息が長いな…。

小谷信子を見て思わず「あっ!」と反応してしまう修二くん。でも柳の精!等とは言えずにそこで止まる。
あっ!さっきあの道の角でぶつかった女!みたいな導入である。

ディスティニィのすべり芸へのフォロー、緩やかに始まるいじめの導入をすでに察する、と、とにかく察しの良さを全開バリバリで見せる修二くん。
類まれなる観察眼と世話焼き感は裏表に関係なく自然に身についている習性なのだ。

お弁当とお付き合い

学園のマドンナ上原まり子から呼ばれて二人でお弁当を食べに行く修二くん。恋愛といえば人類普遍のドラマ要素だ。だからこそ、修二くんはそれもステータスと捉える。
興味深いのは「修二って上原まり子と付き合ってんの?」というセリフ。続くセリフも「付き合っている」と確定させるものはなく、実は既に周りから見ても二人は「付き合っている」と確信できない関係であり、修二くんが考えているほどステータスとして成立しているかどうかは危うい。中身が伴っていない事がそのまま周りへの印象になっている事の一つになっている。

微笑ましいようで空っぽなお昼の風景から、些細なことから始まるイジメのお昼。
しょうもない手紙回しから始まるイジメの描写もさる事ながら、周りもイジメに巻き込まれる事を恐れるのではなく、いじめられっ子(付き合いたくない相手)と付き合わなければならなくなる(自身のレベル、カーストが落ちる事になる)事を恐れて助けもしない、というのが非常に生々しい。
反射的に助けようとした友人を止める、というのも実に意地が悪い。
いじめというのは始まりは一人や数人の出来事かもしれないが、見てみぬふりをする大衆という存在が実は最も大きい勢力を持っている。というのが端的に描かれており、イジメた経験、イジメられた経験がなくても突き刺さるというか、突き刺さってほしい部分である。

机を突き合わせてお弁当を食べる、という光景は友人関係恋人関係その他を表した人物相関図そのものであり、修二くんはそんな教室から一人外れる事で他者との違いを印象付けると共に、その面倒くさい構図からも抜け出す事に成功している。しかし、調理実習室は調理実習室で面倒くさい人間関係の育みが必要で…。黒修二のカットインが良い。
そんなところへやってきてしまう転校生。そしてそれを調理実習室を抜け出す口実に軽やかに利用する、面倒みの良い修二くん。
実は今後、まり子と修二が二人で居ようとする場面には幾度となく邪魔が入る。その最初がこのシーンだ。

焼却炉に廃棄する、捨てられたお弁当と黒いネクタイ。
まり子の真心の籠もったお弁当は修二の胃袋には入っても心には届いておらず、転校生のお弁当と同様に、修二の嘘に捨てられているようなものなのかもしれない。
しかしドタキャンに使えるかもしれないから拾うって、物持ちが良いというか機転が効きすぎというかなんというか…。
この時点は小谷の事も言い訳の道具として使っただけ、本心で助ける気などない、という意味でもネクタイはメタファーになっている。

そして舞い降りる烏天狗。
ここでキャサリンは小谷へ「こいつが真っ当な人間になるように教育してやってね」と告げている。
タイトルにもあるように、プロデュース(≒教育)されるのは野ブタのハズでは?という、あえて外したかのようなセリフだが…。
実はプロデュースを宣言するよりもずっと前に、この時点で野ブタの役割はハッキリと示されていたシーン。

夏木マリというキャスティングは烏天狗というモチーフ(?)としてメチャクチャぴったり(?)で、今後若者たちを諭すセリフを託されるキャストとしてこれ以上ないものであったと思う。

目からウロコ

なんだかんだで彰のお家まで送ってあげて家に上がって身の上話まで聞いてあげる修二くん。柳の精、烏天狗、子泣き爺と、オカルトの類に取り憑かれている。
今後溜まり場となるとうふやさん。大体のシーンで電柱で「と」が隠れて「うふ」になっているので要チェック。

どっちのケーキがいい?という二択。二者択一にはどちらか一択を選ぶしかないと思ってしまうが、実は「選ばない」という選択肢がある、という一連のシーン。
正確には「どちらも取る」「どっちでもいい」「どちらも選ばない」と更に分けられていくと思う。
今後、劇中では二者択一を迫られるシーンは幾つもあり、その布石とも言えるやり取りになっている。

コンタクトレンズを用いて目からウロコと表現するのは落語みたいでメチャクチャ面白い。こういう所が作家性というかセンスの塊というか。
コンタクトをアップにしてボヤケた背景で蠢く彰という絵もかなり印象的で面白い。

「この地球上のどこかで、悲しみにくれている家族もいるんだよな」

帰ってくるなり這々の体で修二に寄ってくる父と弟。電話をするのが父親でなく子供の修二というのが、家庭内での修二の役回りを色々表してる…というのはちょっと厳しすぎるコメントだろうか。

浩二の衣類をアップリケで補修する修二くん。
この光景が家庭内での修二の役回りと生い立ちを…略。

当たり前のようにニュースでは事件や事故の被害者や犠牲者、犯人の写真や名前が流れていく。
日常の風景ではあるが、そこに示されているのは確実に存在している人間であって、であればその親兄弟、友人恋人、子供、友達、同級生、同僚…必ず何かしら接点のある人間、関係者も存在している。
ニュースを見ていちいち心を痛めていたらキリがないけれど、たまたま自分の知らない人だったから流す事ができるだけであって。
もしそれが、自分の見知った人だったら?自分の親兄弟だったら?
この出来事は修二にとってその疑似体験になっており、直後に映される、今はもうない柳の木のあった場所を見る修二というカット。
引っこ抜かれた柳を、他の誰もが気に留める事はない。しかし修二にとって非常に大きな喪失感をもたらしている。その感覚はおそらく家族にも理解されないが、柳がなくなって悲しんでいる自分は確かに存在している。
親の死の疑似体験と拠り所の喪失。それらを重ね合わせてしまった修二。
もっと言えば、黒いネクタイという嘘で人の死を軽く扱った自身に少なからず自責の念も抱いたのではないだろうか、と思う。

そしてエスカレートするイジメの表現として用いられた死の表現。
前述の体験を経た修二は言い回しや方法こそ小賢しいが、自身の体験に後押しされるように、この手法には待ったを掛けて撤回させている。
バンドーもこれには素直に応じている…が、死の表現は本人へ直接浴びせてしまっているのがなんとも…。

「やりたい事がない」と悩む彰と、そこへ差し込まれる凄惨なイジメの現場。
外を見ていながらも立ち止まって足も表情も動かなくなる修二。
自身も水を掛けられ、小谷と同じように着替えるハメになる彰。
彰は正面から乗り込み、修二は自分の立場を守りつつも確実にこの場を解決できる手段を取る。
ここの二人の対応が実にそれぞれのキャラクターを表していて良い。
修二は知らず知らずの内に、二人の関係者になっていく。

お父さん、という呼び方を否定されたトラウマ。
結婚はしたけど君の親になったつもりはない、というのはかーなーり酷い言葉だと思った。
刻み込まれるのは仕方ないシチュエーション。
見直してて気づいたけど、このドラマは母親という存在はあまり出されず、三人の性根に刻み込まれた物として登場するのはいずれも父親の方が強調して描かれている。
そこに特に深いニュアンスはないと思うが(桐谷家の母は仕事で世界を飛び回っているという設定だし)超えたり近づいたりするもの、という有り勝ちな意味合いで見る事もできるかな?

修二が怒って「慣れるわけねーだろ」と強い言葉を浴びせたあと、「生きなきゃなんねーんだから」と自身の中にある諦観を少し優しく言ってくれるのがなんだか印象的。

最初のプロデュース

ゴーヨク堂の棚まるごと買い取ってしまえばいいんだ、という修二くんの単純だが機転の効いた作戦。
「いいよ」というあっけらかんとした返事が良い。
瞬時に学校はこのニュースで席巻されていく。主人公達の作戦が成功したから胸がすくような思いで観ていられるが、実際は非常に簡単なカラクリであるし、そもそもがとても下らない話題である。

舞い上がる彰と冷静な言葉を並べる修二。この二人の会話が実にシニカル。
「売れもしない歌をヒットさせたり、普通の女の子をアイドルにしたり…」
とかいう、「世の中そんなもん」というセリフをまさに売出中のアイドル、ともすればこのセリフを体現しているような存在に言わせるというメタ視点でもスゴいシーンである。
劇中の話題としても、実際は何もしてない小谷が一方的に祭り上げられていき、校内で時の人となるのはまさにこのセリフの表す所であり、現実での流行り、今で言う所のバズりの縮図でもある。
本人以上に、それを持て囃したり、色んな意味で火を点ける別の誰かが存在する。

まり子と小谷が並んでる写真を見て自信が湧いてくる、という絵もなかなか楽しい所で、まり子をカースト上位の象徴(それと最底辺の小谷が並び立っているという写真)としか見ていないという事がよくわかるワンシーンだったりする。

私の世界と願い

唐突に登場する猿の手。こういう、急に捩じ込まれるファンタジーをどう受け取る(または受け取らせる)かが木皿脚本の印象の分かれ道か?
猿の手には元ネタがしっかりとあるのですが、検索各々で。
修二の願いは「柳の木が別の場所で元気に暮らしていますように」

エスカレートするイジメ。しかし修二の言葉もあって、ついに野ブタは反抗を始める。
結構な距離の全力疾走。後半、「小谷いい加減にしろよ!」と叫ぶが、いい加減にするのはバンドー達の方だと思う…。執念ありすぎだろう…。
とはいえ、学校を抜け出て商店街へ行っても通行人が誰も関与しない、という画は、存在するのに存在しない、助けてはくれない大衆の強調でもある。
だから「どこまで行っても同じ世界」。
しかし、やる気を出して走り続けた先に…

バンドー達を弾き飛ばすゴーヨク堂。
「美男美女以外立ち読み厳禁」「ケバい女入店禁止」「イケてない女は滅亡しろ」
センセーショナルで極端な貼り紙達。しかしこれこそが、店主が作り出したゴーヨク堂という「私の世界」。
始めは二人の作戦で、二度目はこの世界から自力で逃げ出そうと、自分の足で走って、入る事を許された場所。
そこには大衆の存在もない。ただただ、店主が作り上げた本と棚と、数々の素晴らしい言葉と、店主の選んだ人が並んでいるだけ。
もしかしたら、修二達が作戦が上手く行ったと思いこんでいただけで、最初から小谷は入ることを許されていたのかもしれない。つまり修二達こそ自分たちが世界を変えられる、なんて舞い上がっているだけで、実際は小谷の実力だったのかもしれない。
しかしそこにハッキリと言及せず、劇中での事実は自身で立ち上がった小谷をただ受け入れたという事のみ、というバランスが良い。
ただ、学校には大衆に埋もれず、助けに行きたかった人が居て…。

帰るフリして全力ダッシュの修二くん。この画は2話以降も何度か見られるが、これが最初であり、桐谷修二という人間の習性を最も象徴する行動の一つである。
まり子の声も全く意に介さない。まり子と小谷の写真を眺めていたときも、これから俺が人気を作り上げていく対象としてだが、小谷しか見ていなかったのかも。
落ちていたネクタイを拾う修二くん。ここで冒頭の捨てられた黒いネクタイとアイテムが繋がって来るのが死ぬほど上手い!!!
嘘をつく為とか、誤魔化すためとか、そんなことの為に拾うのではなく、本気で心配をして本気で探しているときに拾い上げた物。
そしてすかさず滑り込んでくる修二の真心、得意分野。アップリケ。

小谷の願いは「バンドーなんてこの世から消えてしまえ」
自分がいつでも逃げられる、自身の世界を作り出したゴーヨク堂と違い、世界から自分に反するものを排除する方向へ動き出した小谷。
頭の中は便利。居なくなれば良いのに、という人はきっとそれぞれの中にたくさんいる。しかし、一人排除した所で、また別の人物を排除したくなって、きっとそれの繰り返し。

願いというのは人それぞれにあるものだが、意外に言語化は難しいのかも。
幸せになりたい、と一口に言っても何が幸せの形かは人によって違うし、多分時期によっても違う。
恋愛が成就したいと言っても、お付き合いし始めてから仲睦まじく暮らせるかはわからない。
たった今の願いがあれば、その先の願いもある。真に自分が欲しているものがあって、それを本当に実現させる願いをちゃんと願えるか、というと難しい気がする。
小谷の願いは本当に「バンドーが居ない世界」で良いのだろうか。
「願い事は慎重に」の真意は、人の生死や願い事のもたらす影響、というよりも願えば叶ってしまう、というある意味迫られた状況の中で、自身の欲しがっている物は本当にそれでいいのか?という迷いを生じさせなくなってしまう所にあると思う。

修二が願ったからなのかは定かではないが、柳の木は川を超え海も超えていく。
その姿に小谷は修二の言葉と、自身の未来とを重ねる。
そこで繰り出される、ブタのアップリケで補修されたネクタイ。
拾っておくという物持ちの良さ、いつも家でやっているからちょちょいと出来るアップリケによる補修、そんな修二の嘘のない真心とも言うべき象徴が全て詰まったネクタイ。
黒いネクタイとの掛け方、お家での風景としてなんの気なしに出てきたと思ってたアップリケの掛け合わせ方がマジで上手すぎる!!!!!!
こうして手を差し伸べてくれる存在が、小谷にとって本当に必要な存在だった。だからこそ、小谷はバンドーを排除するという、その場限りな願いを取り消して、歩みだす事が出来たのだ。
柳の木が生きている、という願いが叶う事で図らずも小谷の後押しが出来た、そしてそこからプロデュースが始まっていく…というのも全部引っくるめて修二くんの願いも叶っている。
あと、自身の事じゃなくて、柳の木という他者?に関する事を即座に願うのも実に修二くんらしい部分である。
小谷にここまで心からの行動を出来るというのも、修二にとって本当に必要なものだった。
柳の木の喪失と再生に関して、ここまで気持ちを共有できるのも実は小谷だけだ。

世界よ平和になりんしゃい。
この中身がない感じが彰。前半から描かれるやりたい事がない、とか無気力的な所をそのまま表しているかのような願いだ。でも「中近東の紛争が解決したとか~」ってセリフだけがなんか生々しい。
それをすぐに取り消すおじさん。そんなものは叶いもしない願いであって、願うだけムダ、という事だろうか。
こういう可能性をわざわざ提示しながら物凄くドライに扱っていくバランス感覚がすごく好き。
ちなみに、二度目の願いを三度目の願いで取り消す、というのは猿の手の元ネタと同じであり、元ネタの話を考えるとかなりリスペクトというかオマージュを感じる部分である。

途方もない悪意

ブタのアップリケで歩みだす決意を固めた小谷は自らを野ブタと呼び名を提案する。
無言でアップリケを見せつける野ブタ。それを恥ずかしがる修二くん。それをここぞとイジる彰。というやり取りが真の意味で微笑ましい。
この時点では単なる共犯関係のようなものだが、三人がそれぞれにとって、唯一の、それぞれが本当のことをわかりあってる存在を得た瞬間である。

イジメの黒幕の存在が示唆されるラストカット。
単純に考えて次回への引きでもあるわけだが、途方もない悪意とは、個人の意思を指し、無自覚の多くの視線も指し、そして、自身の中にある悪意。それら全てを指しているように思える、そんな後日談形式のモノローグ。


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