架空神話
ハーレーィはイーアレイーアの神である。
イーアレイーアとは、鍋底にある世界ですでに失われてしまった概念のことだ。永遠にも等しい時間の中で、ハーレーィすら、それが何であったかを忘れてしまった。ハーレーィ自身もその肉体を喪失し、人間の死体に宿ることによって、この世界に生き長らえていた。
とある戦場で、ハーレーィは死にかけた女戦士と出会った。そのときハーレーィが身に纏っていた肉体は、すでに腐りかけていた。ハーレーィは櫓のそばで倒れている女戦士が息絶えるのをじっと待っていた。死を迎えたばかりの新鮮な死体を借り受けると、長持ちするからだ。
女戦士は肩と胸に深く矢が突き刺さり、大量の血を流していた。どんな治療を受けても、もはや助かることはないだろう。
「……あなたは、私が死ぬのを待っているのですね」
女戦士は息も絶え絶えにそう言った。
「あなたが今宿っているその肉体は、前の合戦で死んだ私の部下ですもの……」
ハーレーィは昏い瞳で女戦士を睨んだ。
「合戦場にはそういう神様がいるという噂は聞いていました……。私の肉体を差し上げますから、代わりに私の願いを叶えてください」
「応じる義理はない」
「諾と言ってくださらないと、私はこの右脚を切り落とします」
女戦士は、握りしめていた短剣の切先を太腿に押し当てた。甲冑の隙間から、女戦士の血が細く垂れ落ちる。脚が失われた死体では歩くことができなくなるので、ハーレーィにとっては都合が悪い。合戦場には山のように死体が落ちているため女戦士に固執する必要もなかったが、ハーレーィはこの女に興味が湧き始めていた。
「言ってみろ」
「私の死体を夫のところに連れて行って欲しいのです。そして、彼に、私は死んだとお伝えください。私の帰りをずっと待っているのでしょうから……」
そう言って女戦士は息を引き取った。ハーレーィはすぐさま、女戦士の肉体に入り込んだ。
ハーレーィは女戦士のいう通り、彼女の夫の待つ故郷へ向かった。ハーレーィは気まぐれで、そして暇だった。死んだ人間の希望を叶えてやるくらいのこと、ハーレーィにとっては暇つぶしにもならないような時間だった。
死体を動かして、ハーレーィは草原を越え、山を越え、ついに女戦士の家を探しあてた。
家の扉を叩いて女戦士の夫と対面したとき、夫はすぐに妻が死んでいることを理解した。
「神さま、遠路はるばる、よくお越しくださいました」
夫はハーレーィを椅子に座らせた。自分は水を張った桶を持ってきて、ハーレーィの足元に跪き、泥にまみれた足を洗った。
「神さま、お願いなのですが」
夫は死んだ妻の足を清潔な布で丁寧に拭きながら言った。
「妻は、死ぬときは美しい海に溺れて死にたいと言っていました。叶えてやってくれませんか」
「またお願いか。欲張りな人間どもめ」
ハーレーィはその家を去ると、広い広い岩石の砂漠を越えて、海へと辿り着いた。遥か遠くまで洋々と広がる海は、鍋の中で煮詰められた塩のスープだ。ハーレーィは海に身を投げると、大きく息を吸った。塩の水が口いっぱいに広がり、肺を、胃を満たして、全身が膨張する。
死んだ人の体はやがて、母なる海へと還っていく。
鍋の蓋が閉じられたから、天蓋の世界へとたどり着けないと人々は嘆くが、熱したスープの湯気がわずかな隙間から漏れ出すように、鍋のスープに溶けた人間はやがて湯気となり、雲となって世界中に満ち、天へと昇っていくことが、どうして誰もわからないのだろうと、ハーレーィは不思議に思っている。
イーアレイーアの神話
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