宇宙のサロメ
宇宙服のヘルメットを外すと、白いロングヘアが散らばった。髪は触手のようにうごめき、宇宙船内部の白い照明に当たると虹色に光った。イーシアは宇宙服による酸素の供給がなくても生存が可能であった。
産まれる前に母の胎内で耳殻に埋め込まれた通信機器に、船外から通信が入る。
『イーシア、状況はどうだ』
「任務完了。帰還する」
地球生まれの知的生命は、白い石を骨組みとして、柔らかい筋の束で覆われていた。筋の中を赤い液体が通っている。やわな人間を切断するのは、イーシアにとって容易いことだった。イーシアの肉体は外側を透明な外骨格が覆っており、中をゼリー状の内臓が満たしている。イーシアの両手は硬く、鋭く、人間の肉体をやすやすと貫通した。脆弱な外皮を貫いたその先に、硬い石の存在を知ったときは震えたものだ。知識としては知っていたが、その感触は想像を超えていた。
「この船は沈むだろう、異星の侵入者の手によって!」
宇宙船の地下牢で彼が叫んだとき、この船の人間はまだ誰も死んではいなかった。
誰も死んでいなかった、というのは誤りであろうか。そのとき船長だった人間は、前の船長に虚偽の罪を着せ、船の外に生身で放り出していたのだから。
地下牢の男は予言者だった。不吉なことばかり言うので怯えた船員たちによって監禁されたが、彼の言うことは真実になった。イーシアの手によって。
最初にイーシアが異星人だと気づいたのは、船長だった。愚かな船長は、初めて見た異星人の肉体の美しさに魅入られた。
「おれに踊りを見せてくれ。宇宙服を脱いで」
「踊りたくありません、船長」
「おれがその気になれば、おまえを告発し、船の外に捨てることもできる」
「どうぞ自由にすればいい」
船長はイーシアを船の外に捨てるどころか、他の船員にイーシアの正体を告げることもなかった。偶然にも手の中に転がり込んだこの美しい希少生物を、他の船員に殺されることを恐れたのである。
「頼む、イーシア、踊ってくれ。踊ってくれさえすれば、なんでもおまえの欲しいものをやろう」
「本当に、欲しいものはなんでもと、船長?」
「なんでも、この宇宙船に積んだすべての価値ある財さえもな」
「お誓いになりましたね。ならば踊りましょう」
イーシアがヘルメットを脱ぎ捨てると、地球人と近いようで、どの大陸の風貌らしくもない顔があらわになった。細長い手脚、胴体は半透明の乳白色の殻で覆われており、中の液体状の内蔵の躍動が確認できる。その内臓は色とりどりに自ら発光し、それは星雲の輝きに酷似していた。
「おまえたちは、体内に宇宙を飼っているのか」
船長は打ち震えた。得体の知れない、醜くグロテスクにも思える異星人の肉体は、人類よりも力強く、人類よりも高等であることが船長にははっきりと分かった。その圧倒的な、理解を超える機能美の前に、船長はひれ伏すしかなかった。
「さあ、踊りました」
流暢にコミュニケーションをとる異星人の知能の高さが改めておぞましい。
「なんでも望みを言うがいい」
「予言者の骨を」
「それは……それはならぬ!」
船長の顔が蒼白に変わる。予言者は常に船を正しく導いた。彗星との衝突も、宇宙船の故障も、すべて彼の予言により回避された。この先船をゆくべき航路へと導けるのは彼しかいなかった。
「予言者の骨を」
イーシアは繰り返した。船長は項垂れた。この頑強な肉体を持つ異星人を力づくで止めることはできないと、船長には芯から理解できていたからである。
「おまえを……イーシアを早く船から追放するべきだと、彼はずっと言っていた。おまえを難破した宇宙船から拾った日から。もっと早く、そうするべきだったのだ」
イーシアは地下牢に降りた。
「誰もおまえを殺せなかったな」
静かな瞳をした予言者は言った。
イーシアは男と初めて会った夜を思い出していた。彼は酷く痩せていて、頬が痩け、皮のすぐ下にある骨の形がよく分かった。イーシアはその男の内骨格に触れてみたかった。イーシアの体にはない、内側から人間を支える白い石の棒を、イーシアは自分のものにしてしまいたかった。
イーシアは鋭い爪で男の宇宙服を引き裂いた。
恒星たちの細い光に照らされながら、予言者はただじっと、軽蔑の眼差しでイーシアを見つめていたが、やがて目を閉じた。
「おまえなど見たくもない。もう二度と見ない。この船を呪った異星人よ。おまえの上に呪いあれ」
イーシアの透明な指が、男の皮膚を突き破り、肉を削った。吹き出した真っ赤な血は、丸い礫となって真空に散った。そうして露出した肋骨のなかから、心臓を守っていた骨を折って取り出した。その骨がいっとう美しいような気がしたから。
イーシアは男の肋骨を口に含んでみた。塩辛くて、鉄くさい。イーシアの故郷の海の味とよく似ていた。
予言者が殺されたことが翌朝船内に知れた。イーシアが殺したことを、船長は誰にも言わなかった。パニックに陥った船員たちはみな明日は我が身だと怯え、犯人探しに躍起になり、徒党を組んでみれば分裂し、食料や財産を奪い合い、濡れ衣を着せられたものがリンチにあい、船外に捨てられた。予言者が死んだことで船は早々に航路を失い、宇宙の果てを彷徨い、ついにはイーシア以外の全員が餓死した。
「イーシア、おまえを回収するためのカプセルがじき届く。それに乗って脱出しろ。分かっていると思うが、地球船のものは何一つ持ち込むことはできない」
イーシアは手に持っていた予言者の骨に齧り付いた。イーシアは骨を易々と噛み砕き、飲み込んだ。星雲のように美しい内臓が、骨をじっくりと消化していく。
「ああ、わたしはとうとう、おまえの骨を食べてしまったよ。お前の骨を食べてしまったのだ……」
終
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